晋の時代
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泰始6年(270年)6月、禿髪部の族長であった禿髪樹機能が涼州の異民族を率いて西晋に反逆し、万斛堆の戦いで秦州刺史の胡烈を討ち取った。271年、禿髪樹機能は涼州刺史の牽弘を敗死させた(禿髪樹機能の乱)。 泰始9年(273年)、鮮卑は広寧郡を寇し、5000人を殺略した。 咸寧元年(275年)6月、鮮卑拓跋部の力微(りょくび)は子の沙漠汗を遣わして西晋に来献した。同年、西域戊己校尉の馬循は反乱を起こした鮮卑を討伐し、これを破ってその渠帥を斬る。 咸寧2年(276年)7月、鮮卑の阿羅多(あらた)らが辺境を侵したので、西域戊己校尉の馬循は再びこれを討ち、4000余級を斬首し、9000余人を生け捕った。 咸寧3年(277年)1月、西晋の武帝は征北大将軍の衛瓘に命じて鮮卑の力微を討伐させた。同年3月、西晋は司馬駿・文鴦を派遣して、樹機能を破り、降伏させた。 咸寧5年(279年)1月、禿髪樹機能は再び西晋に反逆し、涼州を占拠したが、12月、西晋の馬隆に大敗し、没骨能に殺害された。涼州は馬隆に平定された。 太康2年(281年)10月、鮮卑慕容部の慕容廆は昌黎郡を寇す。11月、鮮卑は遼西郡を寇し、平州刺史の鮮于嬰はこれを討ち破る。 太康3年(282年)3月、安北将軍の厳詢は慕容廆を昌黎で破り、数万人を殺傷した。 太康7年(286年)5月、慕容廆は遼東郡を寇す。 太康10年(289年)5月、慕容廆が晋に来降し、東夷11国は内附することとなった。 これ以後は、五胡十六国時代に突入し、拓跋部・慕容部・宇文部・段部などの部族が互いに抗争したり、晋朝のために匈奴の漢(前趙)や後趙と戦ったり、代国・前燕・後燕・西秦・南涼・南燕など自らの国を建国したりしたが、最終的に拓跋氏の北魏が華北を統一し、南北朝時代を迎える。
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晋の時代
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州:幽州、戸数:3400、県数:4 代県 広昌県 平舒県 当城県 西晋の建興3年(315年)、鮮卑拓跋部大人の拓跋猗盧は愍帝によって代王に封じられ、代国を建国した。平城(現在の山西省大同市)を都とし、現在の内モンゴル中部から山西省北端を治めた。376年、前秦の苻堅によって代国が滅ぼされると、一時は前秦領となり、後燕の建興3年(388年)に廃止された。
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晋の時代
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太康年間(280年 - 289年)、亀茲王は子を遣わして入侍させた。恵帝・懐帝の末、中国が大乱(八王の乱・永嘉の乱)となると、亀茲国の遣使は方物を前涼の張重華に貢納した。前秦の苻堅(在位:357年 - 385年)の時期、苻堅は将軍の呂光に7万の兵を率いさせて亀茲国を征伐し、亀茲王の白純(中国語版)は国境を守って降ろうとしなかったので、呂光は進軍してこれを討平した。
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