時局同志会、翼賛議員同盟と三木
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「三木武夫」の記事における「時局同志会、翼賛議員同盟と三木」の解説
1939年(昭和14年)11月27日、三木を含む第二控室に所属する国会議員8名は、国民同盟の清瀬一郎、東方会の杉浦武雄、日本革新党の江藤源九郎ら、更には院内団体の第一議員倶楽部の一部所属議員とともに、新たな院内団体である時局同志会を結成した。時局同志会には他に安達謙蔵、赤松克麿、朴春琴、木村武雄らが参加した。時局同志会は「聖戦貫徹の熱情を均しくする」ことを標榜する親軍的な会派であり、結成直後には陸軍の動きを背景に当時の阿部内閣の倒閣運動を進めた。 阿部内閣総辞職後、米内内閣が成立するが、時局同志会は政友会、民政党という既成政党の国会議員を入閣させた米内内閣に批判的であった。1940年(昭和15年)2月2日、民政党の斎藤隆夫が衆議院本会議で反軍演説を行った。時局同志会は斎藤の演説を聖戦の目的を冒涜するものと強く反発し、斎藤の衆議院除名に積極的であった。3月7日、衆議院本会議で斎藤は衆議院を除名された。採決の際、反対7、登院棄権121、欠席23が出ており、除名に積極的であった時局同志会の中でも安達ら5名は棄権したが、三木は賛成票を投じたと見られている。 第75帝国議会で、三木は衆議院予算委員会の席で西日本の旱魃対策についての質問、建議委員会では徳島県内の鉄道建設についての建議、そして請願委員会では徳島県板野郡内の郵便局設置についての請願を行うなど、地元の陳情を積極的に処理していた。3月26日、近衛文麿による新党結成の動きに対する意見対立により時局同志会は解散し、三木は同僚議員7名と共に七日会を結成した。この年の春頃からは新体制運動の動きが活発化し、6月24日には近衛は枢密院議長を辞職し、新体制運動に乗り出すことを声明した。7月22日の第2次近衛内閣組閣と前後して各政党とも解散となり、8月には七日会も解散した。三木は七日会までは小規模な院内団体に所属し続け、特定の政党に所属することはなかったが、これは戦後、政党の集散離合に関与し、自由民主党所属後も小派閥を率いることになる三木の姿と重なるものがある。 三木は新体制運動にどのように関わっていたのか、十分な資料は残されていないが、9月12日には、三木の他小泉純也、羽田武嗣郎、西川貞一の計4名が発起人となり、10名あまりの若手国会議員とともに新体制運動についての意見交換会を開くなど、新体制運動に向けて他の若手議員と連携した活動を行っていた記録が残っている。 10月12日には大政翼賛会が結成されたが、政事結社ではなく公事結社とされ、議員たちは大政翼賛会の議会局に所属することになった。政事結社ではない大政翼賛会内では政治活動が禁止され、議会局の扱いの軽さに議員たちは不満を募らせ、解散した政党に替わる形として衆議院議員の大多数の435名が参加して院内団体の衆議院倶楽部が12月20日に結成、三木もこれに参加した。結局1941年(昭和16年)4月には大政翼賛会議会局は廃止、9月2日には衆議院倶楽部も解散となる。同日、衆議院議員324名が参加する翼賛議員同盟が結成され、三木も参加した。一方翼賛体制に批判的な鳩山一郎、尾崎行雄らは1941年(昭和16年)11月10日には同交会を結成し、その他西尾末広、松本治一郎らが参加した興亜議員連盟などが結成されたが、三木はそれらに加わることはなかった。この頃には議会での審議も形骸化が進み、三木は議会での発言機会にも恵まれないようになった。
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