時勢の急変、暗転へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 04:10 UTC 版)
大正7年(1918年)7月23日から始まった米騒動の際は、米を買い占めているというデマが原因で鈴木商店の焼打ちに発展する。この時、直吉の首に10万円の賞金が掛けられたといわれている。この際に、直吉は外国産米を輸入しようと奔走しており、濡れ衣であったが一切の弁明を行わなかった。しかし、この態度が一層の誤解を生む原因ともなった。 第一次世界大戦後の反動で株価、工業製品価格、船舶運賃が軒並み下落。ワシントン軍縮会議の影響で日本海軍の艦船の建造が中止された影響も受けた。株式を上場せずに銀行からの借り入れのみで、運転資金をまかなっていた鈴木商店は大きな打撃を受ける。鈴木商店の資本金1億3000万円に対し、借入金が10億円を超えていた。 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生すると政府は震災手形割引損失補償令を公布。これは震災前に銀行が割り引いた手形のうち、決済不能になった損失を日本銀行が補填するというものであった。この制度成立には、直吉から政治家への働きかけがあったといわれている。鈴木商店と台湾銀行はこの制度を利用し、損失の穴埋めを行う。政府も黙認の態度をとっていた。 昭和2年(1927年)3月、金融恐慌が起こるとコール市場に資本を頼っていた台湾銀行は、最大の貸し手である三井銀行の資本引き揚げにより追い詰められ、鈴木商店への新規融資を打ち切りを通告。三井物産や三菱商事のように系列銀行を持たなかったため資金調達が不能となり4月5日、鈴木商店は事業停止・清算に追い込まれた。 高畑誠一らは鈴木商店の商社部門を引継ぎ日本商業(のち日商、現在の双日の源流企業の一つ)として再出発したが、直吉は高畑らとは別に主家である鈴木家の再興を図って昭和6年(1931年)に太陽曹達の取締役に就任。後に太陽産業と名称を変えて、一時は神戸製鋼所などの20社以上を系列に持った。台湾銀行の担保に取られていた帝人株を買戻したが、これに関連した汚職の疑惑が持ち上がった(帝人事件)。晩年まで北海道や南洋での開発事業を進めようとしていた。
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