昭和の鴨川水害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:40 UTC 版)
「鴨川 (淀川水系)」の記事における「昭和の鴨川水害」の解説
1935年(昭和10年)6月29日未明に発生した鴨川水害では死者12名・負傷者71名・家屋の全半壊482戸、37.2平方kmが浸水。このほか鴨川にかかる26橋のうち五条大橋など15橋が流失。三条大橋など上流の橋が流失して当時コンクリートアーチ橋の四条大橋に引っかかり川の流れをせき止め、あふれた水が先斗町や鴨川と平行して走る京阪本線に路盤流失・駅舎やホーム・琵琶湖疏水の団栗閘門を破損させ東山区側の宮川町も浸水、さらに朝には団栗橋・松原橋・五条大橋を倒壊させて正面橋をせき止めてさらに大きな被害を出した。この洪水による橋の被害がなかったのは北大路・加茂・七条の3つの橋のみだった。復旧工事中の8月10-11日にかけて再度の豪雨で鴨川にかけた仮橋が流失するなどの被害を受ける。これを契機に琵琶湖疏水の暗渠化・塩小路橋付近に水力発電所建設、京阪線の地下化を含む大規模な河川改修事業が計画され、戦争による中断や京阪線地下化・疏水の暗渠化・発電所建設は中止されたものの、1947年(昭和22年)に鴨川の改修工事は完成した。それまで西側に残る水路(みそそぎ川)の高さから2m近く河道が掘り下げられ、五条大橋-塩小路橋間の京阪線の緑地帯を撤去して川幅の拡幅、落差数十cmの堰を多く造り川の流速を抑制する現在の姿になった。 これで鴨川改修工事は終了したが、支流の河川改修工事が遅れ、昭和10年の水害時を上回る最大雨量を記録した1951年7月11日の集中豪雨による水害では上賀茂地区・山端地区が浸水、岩倉地区が水没、出町橋、正面橋、塩小路橋など8橋が流出。五条大橋も流出の危険があるとして一時通行止となった。 その後、京都市の交通渋滞緩和策として京阪線と琵琶湖疏水の地下化は、1979年に着工され1987年5月に地下化され、翌年5月に川端通が開通した。 なお御池通~五条通にかけてカップルが並ぶ事で有名な堤防は、鴨川西岸の先斗町などでは道幅が狭いため火災発生時に消防車の進入ルートとして整備された。
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