明石家さんまとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:08 UTC 版)
「笑福亭松之助」の記事における「明石家さんまとの関係」の解説
「明石家さんま#人物」も参照 1974年3月、京都花月の楽屋を尋ねて弟子入りを申し出たさんまに、松之助が「なぜ僕を選んだのか」と問うたところ、「あんたはセンスがあるから」と返された。さんまに悪意がなかったとはいえ不遜な返答だったが、それに対して松之助は「それはどうも、褒めてもろておおきに」と答え、決して怒らなかった。 松之助は弟子を付き人として連れ回すより、自宅で勉強させたほうがいいという主義だったため、さんまは松之助の仕事の際は留守番をし、掃除や炊事などの家事を手伝っていた。松之助は息子の弘之(のんき)から「兄ちゃん(さんま)は、昼まで寝ている(師匠を見送ったさんまが二度寝をしている)と耳打ちされた。それ以降、忘れ物をした際などは、自宅に入る前にわざと大きな音をたてたり、大声で歌ったりすることで、さんまが自分を迎える際に慌てないよう、自然に目を覚ますように仕向けていた。のちになぜ師匠が弟子に気を使う必要があったかと苦笑混じりで回想している。 これは甘やかしていたのではなく、普段のさんまが住み込み弟子としての仕事を果たしていたので、大目に見たものだという[要出典]。 さんまが落語をしないと批判され、気に病んでいると知った松之助は、かつて自身が三角八重に叱られた話を引き合いに出し、タレント業に精を出したらよい、今を精一杯生きるということが大切と励ました。それを受けたさんまは「師匠がそういわれるのなら落語家を辞めます」と宣言すると、すでに決まっていた落語会の出番にタキシード姿で現れ、客席に「わたくし明石家さんまは今日かぎり落語家をやめます」と告げた。 晩年まで、上京したさんまと週に1通手紙をやり取りしていた。さんまは、週刊誌[どれ?]の「私の宝物」という取材で松之助からの手紙の束を紹介した。松之助はさんまに心配されることを嫌い、目や血管の手術をした際も教えなかった。 松之助は、さんまの今日まで[いつ?]の活躍について好意的である。修業時代にナンパしながら女の子を笑わせたことについて、他の師匠であれば眉をひそめるところを「芸人としてむしろ勉強している」と褒めた。さんまが売れ出した頃、松之助は高座で開口一番「売れているさんまの師匠の笑福亭松之助です」と必ず言っていた。ある時は、襟に大きく「さんまの師匠」と書いた羽織を仕立て、高座で着用した。さんまの出演するテレビ番組をよく見ており、そのたびに「彼は常に全力投球で、絶対に手を抜いていない」と感心した。 「よしもとの天然記念物保護の会」(2008年11月16日、なんばグランド花月)に際し、何か手伝わせてほしいと願い出たさんまに松之助は「君が来たら僕が目立たなくなるがな!」とかたくなに拒否した。それでも食い下がられ「えぇ? 来るの……?」とつぶやき、さんまを苦笑させた。その本番では、弟子はもういらない、さんまの看板が大きいので十分と自慢の弟子を誇らしげに語り、さんまは「僕が53歳(当時の年齢)になって、とっくに師匠は死んでると思っていたが……。一緒に舞台共演するなんて思わなかった」と語った。 松之助は数年に1度の割合で、さんまの冠番組『さんまのまんま』にゲスト出演している。この中で、初孫(のんきの息子)が誕生したときに一切連絡をしなかった理由として「君が『それがどないしたん?』って思うと思った」と語り、さんまは苦笑して「師匠にそんなこと口が裂けても言えませんよ」と返している[要出典]。 『笑点』スペシャルに出演した松之助は、次のようなさんまにちなむ回答をした[要出典]。 「さんまにジャンケンで負けて、弟子になった」(2006年) 「夢で良いから 見てみたい 弟子のさんまにお年玉」(2009年) 「弟子のさんまが、さあ来るぞ! 今年もお年玉をもらおう」(2010年)
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