旧笹川家住宅(新潟県西蒲原郡味方村)
名称: | 旧笹川家住宅(新潟県西蒲原郡味方村) |
ふりがな: | きゅうささがわけじゅうたく |
名称(棟): | 表座敷及び台所 |
名称(ふりがな): | おもてざしきおよびだいどころ |
番号: | 1268 |
種別1: | 近世以前/民家 |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
指定年月日: | 1954.03.20(昭和29.03.20) |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 棟 |
代表都道府県: | 新潟県 |
都道府県: | 新潟県新潟市南区味方216 |
所有者名: | 味方村 |
指定基準: | |
管理団体名: | |
管理団体住所: | |
管理団体指定年月日: | |
構造形式: | 桁行34.3m、梁間17.6m、寄棟造、東面式台、東西南北庇付、 西面南端便所附属、銅板葺 |
時代区分: | 江戸後期 |
年代: | 文政9(1826) |
解説文: | 屋敷は東西約一五〇m、南北約一〇〇mのほぼ長方形で、表座敷及び台所と居室部のほか、表門や土蔵など多くの附属屋が残されており(七棟が重文)、庭園や周囲の土塁、堀に至るまでよく旧状を保っている。 越後地方の豪農の屋敷構えを知る上に重要である。 |
旧笹川家住宅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/11 08:33 UTC 版)
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![]() 主屋正面 2016年撮影 | |
施設情報 | |
正式名称 | 重要文化財旧笹川家住宅[1] |
事業主体 | 新潟市 |
管理運営 | 新潟市(南区役所 地域課) |
所在地 |
〒950-1261 新潟県新潟市南区味方216番地 |
位置 | 北緯37度46分35.0秒 東経139度0分36.0秒 / 北緯37.776389度 東経139.010000度座標: 北緯37度46分35.0秒 東経139度0分36.0秒 / 北緯37.776389度 東経139.010000度 |
プロジェクト:GLAM |
旧笹川家住宅(きゅう ささがわけじゅうたく)は、新潟県新潟市南区味方に所在する歴史的建造物。通称笹川邸。1万4000平方メートルの敷地を有し、主屋など11棟の建造物と土地が国の重要文化財に指定されている。
所有者は新潟市であり、管理業務は同市南区地域課が行っている。
概要
江戸時代初期の慶安2年(1649年)から明治維新(1868年)まで9代にわたって村上藩味方組8カ村(味方・白根・板井・木場・黒鳥・北場・亀貝・小新)の大庄屋(おおじょうや)を勤めた笹川家の旧宅である。
味方組は村上藩の飛び領地、四万石領のひとつであった。七左衛門朋通(6代目)の代には、村上四万石領騒動が起こった。
米蔵に収納された年貢米は、中ノ口川を利用して新潟湊に輸送された。
笹川家は、もともと甲斐の武田家の出といわれ、武田氏の滅亡後、信州笹川村(現在の長野県飯山市)を経てこの地に移住してきたのだとされる。土蔵裏手の墓地には、武田姓の墓碑が何基か残してある。
敷地内には日本庭園が開け、一隅に「椎落葉掃き悠久の人住めり」と高浜虚子の句碑がある。
1953年(昭和28年)、柳宗悦、浜田庄司らとともに笹川家を訪れたイギリスの陶芸家バーナード・リーチは「わたしのこれまでに見たうちで最も魅力ある家屋の一つ」と、この家の印象を手記に書き残している。
1954年(昭和29年)に表門や表座敷が国の重要文化財に指定され、1970年(昭和45年)に旧味方村に移管された[2]。その後、1978年(昭和53年)に米蔵や井戸小屋が重要文化財に追加指定された[2]。
建築
当住宅の特色は、大庄屋の役宅としての「主屋」の部分と、家族の日常生活の場である「居室」の部分が別棟となり、公私が明確に分けられている点にある。主屋(重要文化財指定名称は「表座敷及び台所」)は、東を正面として建てられ、桁行15間半(34.3メートル)、梁間7間(17.6メートル)。寄棟造、銅板葺き(もとはこけら葺き)。棟札から文政9年(1826年)の上棟と判明する[3]。
主屋の正面左寄りには切妻造の式台玄関が突出する。そのすぐ右手(北)には柵を設けた脇玄関があり、そのさらに右手に一般玄関、もっとも右(下手)には土間への入口がある。このように、建物正面には4つもの入口がある[4]。
式台玄関を入った先は18畳の「三の間」、その下手(右)、すなわち脇玄関を入ったところには28畳の「広間」がある。「三の間」の上手(左)には「二の間」があり、「二の間」の西には「上段の間」がある。「三の間」「二の間」「上段の間」の3室は矩折り(L字形)に連なり、役宅の接客用の表座敷を構成する。これらの室の外側には畳廊下と濡縁を回す。「二の間」と「上段の間」は、普通の畳を敷けばそれぞれ15畳及び12畳半の広さだが、本住宅の場合は特別に大きいサイズの畳を敷き、それぞれ12畳及び9畳になっている。以上の各室は内法(床から鴨居までの高さ)が高く、その分、建具も大型になっている。「広間」は梁組を現し、そのさらに上方に天井を張るため、天井高は4.9メートルに達する[5]。
主屋の下手(北側)には土間を設け、土間の奥(西側)には板敷の「台所」(「囲炉裏の間」とも)がある。ここは往時は笹川家の使用人のたまり場になっていた[4]。
居室部棟は、主屋の背後(西)に別棟で建ち、主屋とは渡廊下で接続している。桁行12間半(26.5メートル)、梁間5間(13.0メートル)。寄棟造、桟瓦葺き。棟札から、主屋よりやや早い文政4年(1821年)の上棟と判明する。居室部は主屋とは異なって棟を東西方向にして建てられており、内部は多くの室に分けられ、茶の間や家族用の座敷などを設ける。主体部南側の東端と西端に突出部を設け、さらに北側中央付近には「勝手」が突出する。東の突出部は客間であり、西の突出部は納戸(寝室)などを設ける。西の突出部のさらに先には矩折りに仏間がある。西の突出部の2階は明治末期に増築したもので、もとは平屋建てであった[3]。
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主屋の二の間
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主屋の台所
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居室部棟
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表門
指定文化財
以下の11棟と土地が国の重要文化財に指定されている。
- 表座敷及び台所(主屋)
- 居室部
- 表門
- 文庫
- 雑蔵
- 奥土蔵
- 米蔵
- 飯米蔵
- 三戸前口土蔵
- 井戸小屋
- 外便所
- 土地 14,252.24m2(堀、土塁、板塀、裏門、庭塀を含む)
主屋、居室部、表門、文庫、雑蔵、奥土蔵は1954年(昭和29年)3月20日付で国の重要文化財に指定され、他の5棟と土地は1978年(昭和53年)5月31日付および1991年(平成3年)5月31日付で追加指定された。主屋は1826年(文政9年)、居室部は1821年(文政4年)、表門は1799年(寛政11年)の建立であり、他の付属建物は江戸時代末期から明治時代の建立である。
観覧料
近隣に所在する新潟市曽我・平澤記念館との一体的な運営が行われている。観覧料は両施設とも同一額で、どちらか一方の観覧料を支払えば、当日中に両施設とも観覧することができる。
- 一般(15歳以上) 500円
- 小・中学生 300円
- 20人以上の団体には割引が適用される。
- 一般 400円
- 小・中学生 200円
交通
脚注
- ^ 重要文化財旧笹川家住宅条例 - 新潟市 例規 - 2013年1月24日閲覧。但し条例の本文では「重要文化財」を省き、単に「旧笹川家住宅」と表記している。
- ^ a b “新潟市歴史資料だより第11号”. 新潟市総務局国際文化部歴史文化課. p. 3. 2025年1月10日閲覧。
- ^ a b 鈴木 & 宮澤 1985, p. 87,88.
- ^ a b 高井 2002, p. 158.
- ^ 鈴木 & 宮澤 1985, p. 88,90.
参考文献
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- 『郷土資料事典』新潟県・観光と旅(人文社)
- 高井潔『民家 上』淡交社、2002年。ISBN 4-473-01946-2。
- 鈴木嘉吉監修; 宮澤智士執筆『日本の民家万有ガイドシリーズ30』小学館、1985年。
- 『笹川邸今昔』味方村村史編さん委員会
関連項目
外部リンク
- 重要文化財 旧笹川家住宅 - 新潟市 南区
- 旧笹川家住宅(笹川邸) - にいがた観光ナビ
旧笹川家住宅(新潟県新潟市南区・旧笹川家住宅)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:30 UTC 版)
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