日本の午砲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 03:08 UTC 版)
日本では江戸時代末期に行われていたという記録も散見されるが、組織化されたきっかけは1871年の午砲の制により制度化されたことによる。大都市を中心に、午砲台(所)が設置された。 運営は主に陸軍が行ったが後に海軍や測候所、地方自治体も参画している。 午砲が撃たれた場所については午砲台の記事を参照のこと。 1871年、兵部省で「真時正刻は胸臆手記することがはなはだむつかしい」という理由で東京の午砲執行を計画した。すなわち「旧本丸中に於て、昼十二時大砲一発ずつ毎日時号砲執行致し且つ諸官員より府下遠近の人民に至るまで普く時刻の正当を知り易くし以て各所持する時計も正信を取る所これあり候よう致し度、云々」という伺書を兵部省より太政官に提出したところ太政官においてもその必要をみとめ、同年9月2日(10月15日)達しで9日(22日)から執行させることとなった。すなわち皇城内中央気象台の隣地練兵場に正午所をもうけ、天文台から電信の打ち合わせでその日打ち出した大砲の号砲のひびきは俗に「丸の内のドン」を午砲の代名詞とした。発砲は近衛砲兵におこなわせ下士1名、上等兵2名来所の定めで、東京のほかにも師団所在地で執行された。その後、陸軍省の予算の収縮の結果、1922年9月15日限りでこれを廃するのやむなきにいたった。東京では東京市でその事業をひきつぎ、1929年5月1日に電話による正時の通報を得てモーターサイレンによる正時の通報が執行されるまでの号砲機関とした。 1888年1月1日に日本標準時が適用される際、神奈川県では当日午前0時に野毛山で号砲を発した。 1928年10月14日には、正午の5分前に誤って東京市の午砲が撃たれ、翌日付の『東京朝日新聞』朝刊に謝罪広告が出された。 午砲台の場所が高台にある都市ではしばしばドン山と命名され、現在でも呼び名が受け継がれている。
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