日本における「"自律"尊重原則」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:15 UTC 版)
「オートノミー」の記事における「日本における「"自律"尊重原則」」の解説
日本の一部では(単純に、自律神経から連想して誤訳してしまっただけの可能性もあるが)、これを定義通りの「自己決定権」または「自主」でもなく、「自律」または「自律性」という文脈上とくに違和感のある日本語訳を採用する場合がある。また、その根拠を、元の古ギリシャ語を原義とする意味合いによらず、カントがその道徳論で用いたオートノミーに求めて説明する試みが見られている。その結果として「自分の行為を主体的に規制すること。外部からの支配や制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること」という理解に繋がってしまっているのである。(本来は逆で「患者は常に自分の治療を選択する自由を持つべき」という定義) しかしながら、ここ(「医療倫理の4原則」や生命倫理学#原則)におけるオートノミーをカントの意味合いに求める根拠は存在せず、そもそもカントは道徳において、オートノミーを3つのテーマによって定義していると現代倫理では一般に解釈されている。第一に、他者からの干渉を排除して自らの決定を下す権利としてのオートノミー(自主性)。第二に、自らの心の独立性を通してそして個人的な熟考の後にそのような決断をする能力としてのオートノミー(自律性)。第三に、オートノミー(自立的)に生活するための理想的な方法として。つまり、(カントの定義する)オートノミーは、自分が所有する内なる道徳的な権利("Moral rights"=「人格権」)と言える。 ゆえに、ここであえて「自律」という訳語を採用し、患者の内面の道徳的「自律心」または「(子供の発達期における)自己を律する自律性」「自分の行為を主体的に規制すること」を示唆するのは、医療倫理の文脈でいう、外からの干渉を受けない患者の「自主」に基づく自己決定の権利をあえて欠落させるものである。 つまり、パターナリズムの対義語としての患者の「自己決定(権)」の擁護、およびその保障プロセスとしての「インフォームド・コンセント」の必要性を説くこの文脈において、「自律」の訳語採用は明らかに誤りである。実情を掘り下げると、インフォームド・コンセントをあえて「説明と同意」という日本独自の概念に変えてしまい、日弁連から「『説明と同意』という訳語はインフォームド・コンセントの理念を正しく伝えず、むしろ従来型のパターナリズムを温存させるものである」と批判されたように、ここで「自律」の訳を採用すること自体が日本の医療におけるパターナリスティクな慣習と抵抗の現れである、とする批判も可能である。そこで、ここでは中立的で客観的に、より正しい意味合いである「自主」、そしてその具体としての「自己決定権」というオートノミーの訳語を採用しているものである。 なお、同じ漢字圏の国(台湾など)においても、この文脈では「自主」である。 例:「醫學倫理學 - 病患自主(患者の自主)」、「生命倫理學之四原則、1.尊重自主原則」、「自主神经系统」、「病人自主權利法(患者の自主権利法)」
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