日本でのキネトスコープの公開とは? わかりやすく解説

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日本でのキネトスコープの公開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 21:41 UTC 版)

キネトスコープ」の記事における「日本でのキネトスコープの公開」の解説

1896年秋、神戸居留地貿易商リネル商会キネトスコープフィルム日本輸入し、それを神戸市銃砲経営者である高橋信治が購入した高橋キネトスコープは、同年11月17日宇治川旅館常盤」で小松宮彰仁親王台覧し、11月19日付の神戸又新日報新聞報道されたが、その記事ではキネトスコープを「写真活動器械」と紹介した11月20日には舞子周布公平別荘有栖川大宮妃が台覧し、11月21日付の神戸又新日報新聞報道された。 11月25日高橋神戸市の神港倶楽部キネトスコープ一般上映開始した同日付の神戸又新日報上映広告掲載されたが、そこではキネトスコープを「ニーテスコップ(電気作用写真活動機械)」と紹介し11月29日まで5本の作品日替わり上映する告知した。その作品名は25日から順に『西洋人スペンサー銃ヲ以テ射撃ノ図』『同 縄使用ケノ図』『同旅館ニテトランプ遊戯ノ図』『京都祇園新地芸妓三人晒布舞ノ図』『悪徒死刑ノ図』である。上映会日程12月1日まで延期されており、『米国都府ニ於テ馬車自転車競走ノ図』が追加上映された。この上映会には装置の仕組み作品の内容解説する説明者がいたとされ、その人物の正体ははっきりと分かっていないが、映画史家塚田嘉信は高橋担当したではないか推定している。 神港倶楽部での興行終えたキネトスコープは、12月3日から22日まで大阪市南地演舞場で公開し1897年1月1日から12日まで同会場再公開した。この興行高橋大阪時計店主である三木福助との共同出資行われ上田布袋軒が説明者を務めた上田玄人口上言いで、その後映画弁士務めたことから、しばしば日本映画史上初の活動弁士呼ばれている。この興行見物者の回想によると、一回見物料は10銭か15銭で、まず待合室通され順番呼び出され別の部屋キネトスコープ覗き、側に立っている人が題名言ってくれたが、映像チカチカしていて見づらく、順番待ち退屈しのぎ見せられ鉄道模型方に人が群がったという。南地演舞場での興行が終わると、高橋キネトスコープを周弘社に売却し1月29日同社東京浅草花屋敷の五階奥山閣)で「写真人物活動機」の名称で公開した3月には上野公園でも公開されたが、その後キネトスコープ公開記録はない。

※この「日本でのキネトスコープの公開」の解説は、「キネトスコープ」の解説の一部です。
「日本でのキネトスコープの公開」を含む「キネトスコープ」の記事については、「キネトスコープ」の概要を参照ください。

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