日本でのキネトスコープの公開
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「キネトスコープ」の記事における「日本でのキネトスコープの公開」の解説
1896年秋、神戸居留地の貿易商リネル商会がキネトスコープとフィルムを日本に輸入し、それを神戸市の銃砲店経営者である高橋信治が購入した。高橋のキネトスコープは、同年11月17日に宇治川の旅館「常盤」で小松宮彰仁親王が台覧し、11月19日付の神戸又新日報で新聞報道されたが、その記事ではキネトスコープを「写真活動器械」と紹介した。11月20日には舞子の周布公平の別荘で有栖川大宮妃が台覧し、11月21日付の神戸又新日報に新聞報道された。 11月25日、高橋は神戸市の神港倶楽部でキネトスコープの一般上映を開始した。同日付の神戸又新日報に上映広告が掲載されたが、そこではキネトスコープを「ニーテスコップ(電気作用写真活動機械)」と紹介し、11月29日まで5本の作品を日替わりで上映すると告知した。その作品名は25日から順に『西洋人スペンサー銃ヲ以テ射撃ノ図』『同 縄使用別ケノ図』『同旅館ニテトランプ遊戯ノ図』『京都祇園新地芸妓三人晒布舞ノ図』『悪徒死刑ノ図』である。上映会の日程は12月1日まで延期されており、『米国都府ニ於テ馬車ト自転車競走ノ図』が追加上映された。この上映会には装置の仕組みや作品の内容を解説する説明者がいたとされ、その人物の正体ははっきりと分かっていないが、映画史家の塚田嘉信は高橋が担当したのではないかと推定している。 神港倶楽部での興行を終えたキネトスコープは、12月3日から22日まで大阪市の南地演舞場で公開し、1897年1月1日から12日まで同会場で再公開した。この興行は高橋と大阪の時計店主である三木福助との共同出資で行われ、上田布袋軒が説明者を務めた。上田は玄人の口上言いで、その後も映画の弁士を務めたことから、しばしば日本映画史上初の活動弁士と呼ばれている。この興行の見物者の回想によると、一回の見物料は10銭か15銭で、まず待合室に通され、順番に呼び出されて別の部屋でキネトスコープを覗き、側に立っている人が題名を言ってくれたが、映像はチカチカしていて見づらく、順番待ちの退屈しのぎに見せられた鉄道模型の方に人が群がったという。南地演舞場での興行が終わると、高橋はキネトスコープを周弘社に売却し、1月29日に同社が東京の浅草花屋敷の五階楼(奥山閣)で「写真人物活動機」の名称で公開した。3月には上野公園でも公開されたが、その後のキネトスコープの公開記録はない。
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