日本からの留学者
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バウハウスへの日本人留学者は、水谷武彦(東京美術学校助教授)と山脇巌・道子夫妻がいる。 山脇巌『バウハウスの人々 近代建築家7』彰国社、1954年。各・回想記 山脇道子『バウハウスと茶の湯』新潮社、1995年 水谷らは帰国後は美術学校でバウハウス流の造形教育を行った。 新建築工芸学院(1932年 - 1938年) 日本の高等芸術学校。水谷武彦、山脇巌・道子夫妻が講師として参加。 山脇巌はバウハウス閉鎖後に帰国し、バウハウスで学んだフォトコラージュによる作品「バウハウスへの打撃」(ナチスの突撃隊とバウハウスの写真などを組み合わせた)を制作した。戦後、山脇は日本大学芸術学部教授に就き、バウハウスの経験をもとにカリキュラムを作成する。これが日本で初の大学におけるデザイン教育となる(当時は美術学科の中にあるデザイン専攻。現在はデザイン学科として独立)。
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日本からの留学者
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「東方勤労者共産大学」の記事における「日本からの留学者」の解説
開学当時に3名が留学したのを皮切りに、左翼運動の関係者が相次いで留学した。日本共産党から派遣された者、海外から入国した者(欧米の共産党員資格を持つ者もいた)など入国経緯は様々であった。ソ連に滞在する日本の関係者が増えると、非入学者も含めてソ連国内で日本人ネットワークを構成した(下記外部リンクを参照)。代表的な在籍者としては風間丈吉、山本正美、野坂参三の妻である野坂竜、春日庄次郎、袴田里見、国崎定洞らがいる。特高警察が日本共産党に送り込んだ「スパイM」として知られた松村昇こと飯塚盈延も卒業生であった。早い時期に留学を終えて日本に帰国した卒業者は日本で運動の指導に当たった。当時の日本共産党においては「クートヴェ帰り」はそれだけで尊敬される風潮があったという。 1924年秋、クチューモフが主任となって、日本部が設立される。 しかし、1930年代に入るとソ連は大粛清の時代を迎え、日本人もその影響を受けることとなった。ソ連国内にとどまっていた卒業者の多くは逮捕され、粛清の犠牲となった者も少なくない。一方、日本で運動に携わっていた卒業者は多くが特高警察に検挙・弾圧され、転向する者も相次いだ。在籍者のうち、戦後、日本共産党の要職に就くことができたのは、粛清期以前に卒業・帰国して非転向を貫いた袴田里見・春日庄次郎ら少数である。
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