敵対者との戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:39 UTC 版)
「ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ」の記事における「敵対者との戦争」の解説
ムハンマド率いるイスラーム共同体は、周辺のベドウィン(アラブ遊牧民)の諸部族と同盟を結んだり、ムハンマドに敵対するマッカの隊商交易を妨害したりしながら、急速に勢力を拡大した。こうして両者の間で睨み合いが続いたが、ある時、マディーナ側はマッカの大規模な隊商を発見し、これを襲撃しようとした。しかし、それは事前にマッカ側に察知され、それを阻止するために倍以上の部隊を繰り出すが、バドルの泉の近くで両者は激突、マディーナ側が勝利した。これをバドルの戦いと呼び、以後イスラム教徒はこれを記念し、この月(9月、ラマダーン月)に断食をするようになった。 翌年、バドルの戦いで多くの戦死者を出したマッカは、報復戦として大軍で再びマディーナに侵攻した。マディーナ軍は、戦闘前に離反者を出して不利な戦いを強いられ、マッカ軍の別働隊に後方に回り込まれて大敗し、ムハンマド自身も負傷した(ウフドの戦い)。これ以後、ムハンマドは、組織固めを強化し、マッカと通じていたユダヤ人らを追放した。 627年、マッカ軍と諸部族からなる1万人の大軍がムスリム勢力の殲滅を狙って侵攻してきた。このときムハンマドは、ウフドの戦いを教訓にサハーバの一人でありペルシア人技術者のサルマーン・アル=ファーリスィーに命じて、マディーナの周囲に塹壕を掘らせた。それにより、敵軍の侵攻を妨害させ、また敵軍を分断し撤退させることに成功した。アラビア語で塹壕や防御陣地の掘のことをハンダクと呼ぶため、この戦いはハンダクの戦い(塹壕の戦い)と呼ばれる。マッカ軍を撃退したイスラム軍は、武装を解かず、そのままマッカと通じてマディーナのイスラーム共同体と敵対していたマディーナ東南部のユダヤ教徒、クライザ族の集落を1軍を派遣して包囲した。 628年、ムハンマドは、フダイビーヤの和議によってマッカと停戦した。この和議は当時の勢力差を反映してマディーナ側に不利なものであったが、ムスリムの地位は安定し以後の勢力拡大にとって有利なものとなった。この和議の後、先年マディーナから追放した同じくユダヤ教徒系のナディール部族の移住先ハイバルの二つの城塞に遠征を行い、再度の討伐によってこれを降伏させた。これにより、ナディール部族などの住民はそのまま居住が許されたものの、ハイバルのナツメヤシなどの耕地に対し、収穫量の半分を税として課した(ハイバル遠征)。これに伴い、ムスリムもこれらの土地の所有権が付与されたと伝えられ、このハイバル遠征がその後のイスラーム共同体における土地政策の嚆矢、征服地における戦後処理の一基準となった言われている。しかし、ユダヤ教徒側と結んだ降伏条件の内容や、ウマルの時代に彼らが追放された後ムスリムによる土地の分配過程については、様々に伝承されているものの詳細は不明な点が多い。この遠征の後、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーといった周辺のユダヤ教徒系の諸部族は相次いでムハンマドに服従する事になった。自信を深めたムハンマドは、ビザンツ帝国やサーサーン朝など周辺諸国に親書を送り、イスラム教への改宗を勧め、積極的に外部へ出兵するなど対外的に強気の姿勢を示した。 630年にマッカとマディーナで小競り合いがあり停戦は破れたため、ムハンマドは1万の大軍を率いてマッカに侵攻した。予想以上の勢力となっていたムスリム軍に、マッカは戦わずして降伏した。ムハンマドは、敵対してきた者達に当時としては極めて寛大な姿勢で臨み、ほぼ全員が許された。しかし、数名の多神教徒は処刑された。カアバ神殿に祭られる数百体の神像・聖像はムハンマド自らの手で破壊された。
※この「敵対者との戦争」の解説は、「ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ」の解説の一部です。
「敵対者との戦争」を含む「ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ」の記事については、「ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ」の概要を参照ください。
- 敵対者との戦争のページへのリンク