教育者赤彦とは? わかりやすく解説

教育者赤彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 22:27 UTC 版)

島木赤彦」の記事における「教育者赤彦」の解説

赤彦は1890年明治23年に14歳で傭教員となり、教員への道を歩みはじめた1898年明治31年)、長野尋常師範学校卒業して北安曇郡池田会染尋常高等小学校訓導となるが、早くもその4月、信濃教育会への議案提出関わるなどの積極性をみせている。その後信濃教育会機関紙信濃教育』へ研究意見発表し続け1911年明治44年)には、同総会において「教育革新について」のテーマ意見発表もしている。とくに、1917年大正6年)『信濃教育』の編集主任就任してからは毎号巻頭論文執筆しており、1920年大正9年)に編集主任辞任するまで学校教育あり方理想教師像等をはじめ、哲学文芸時には時局問題までも触れ、その緻密な先見論旨発表した初任地の池田会染においては情熱的な青年教師として当時珍しかった野球教えたり個性的な教育進めるために、家庭状況体格学力性格など細かく記録した生徒経歴簿を作成した。 赤彦は一教師として教え子対し熱烈な教育をするとともに後年は、管理的立場教育携わることにもなった。1909年明治42年)には広丘尋常高等小学校(現在の塩尻市立広丘小学校)の校長就任したが、さまざまな問題抱え毀誉褒貶のある時代であり、僅か2年1911年明治44年)には玉川尋常高等小学校長となった玉川においては学校運営独自性発揮し、この働きにより、請われ1912年明治45年)、諏訪郡視学となった視学としては、学歴はなくても力量のある者は重要ポストに付け人事異動等を行ったり、訪問した学校授業をやって見せるなど諏訪教育改革のための期待応えた1914年大正3年『アララギ』再建のため上京決意するまで、公私とも難問山積のなか教育者としての使命全うした大正自由教育運動に対しては、北原白秋など『日光』の歌人深く関わっていたこともあってあまり評価していなかった。しかし1924年大正13年)の川井訓導事件にて、赤彦の門下といえる信濃教育会会員たちが川井清一郎擁護した際は、それを支持した

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