教義と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/04 08:48 UTC 版)
身玉山の教義は、明治の神仏分離令前の日本の一般的な信仰形態である神仏習合の教義である。空海等が体系的な経典仏教をもたらす前に、断片的に伝来していた仏教経典と日本古来の神道・山岳信仰を組み合わせた教えで、役小角を始祖とする教え(修験道)ということもできる。空海も唐へ渡る前は修験道を修めていたことが知られている。空海や最澄が体系的な仏教をもたらした後は、本地垂迹という形で仏教体系の中に神道が取り込まれる形で日本の宗教が定着していった。天皇も日本仏教の法王や上皇の称号を有していた他、皇室は真言密教にものっとって祈祷や埋葬等を行なっていた。しかし明治維新の際に神仏分離令が出されたため、各地の神仏習合の寺社は神道か仏教を選択する必要に迫られた。多く神仏習合の寺社は、分離し、故に多くのお寺と神社が隣り合っている状態が日本各地でよく見られる。身玉山は神仏分離前の日本の一般的な信仰形態を残している。身玉山は身玉山明華の代に隆盛した。身玉山明華の家系は吉野修験道を修する家系であったが第二次世界大戦前は有名ではなかった。戦後に神仏習合が再び公認されるに至り、発展を迎えることとなる。身玉山は愛知県に4社寺、岐阜県に1社寺を構える。昭和30年代に宗教法人化した。行事としては春秋の大祭の他、夏と冬に御嶽山・富士山へ登拝している。上記の通り身玉山の教義は宗教の体系上では修験道と捉えられるが、空海(弘法大師)にあやかり高野山真言宗に近い教義であるとされている。本尊は不動明王で、脇侍に弘法大師を配置している。また豊田市の本山には、弘法大師の誕生から逝去までの毎歳の仏像を祀った弘法堂(大師堂)もある。故に弘法大師に対する信仰も身玉山では重要とされている。
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