政治・社会文化的背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/11 05:01 UTC 版)
「パレスチナ独立戦争」の記事における「政治・社会文化的背景」の解説
最初はシオン主義との衝突はアラブ・パレスチナ人社会を文化・社会・宗教・政治の面で保守的にした。イギリス植民地主義とユダヤ人の侵略の2つの衝撃に対抗して、自分達独自の遺産や存在を保護しようと強く動機付けられたからだ。伝統的にアラブ人は精鋭を輩出していたが、本当の意味での指導者はいなかった。 1930年代に両方変わった。この期間に新しい政治組織や新種の活動家が現れ始め、社会全体を巻き込むようになった。特に田舎社会に長く根付いていた民族主義が都会に定着し始めた。この時期若い活動家が急増した。有名な組織に1931年からシオン主義への武力抵抗を呼びかける「若者のムスリム協会」や汎アラブ感情を表明した「若者議会党」、1936年初頭に設立されて総同盟罷業で活躍した「パレスチナ人スカウト協会」がある。活発な社会問題となっていた女性組織も1920年代末から政治に関わるようになった。1929年にエルサレムで開催された「アラブ女性議会」は200人の参加者を集め、「アラブ女性協会」(後のアラブ女性連合)と共に女権論者のタラブ・アブドゥル・ハディが同時期に設立した。1930年代初頭から新しい政党が現れ始めた。中でもインド国民会議式ボイコットを主張する「独立党」や、ナシャシビ派の「国民防衛党」、フセイニ派の「パレスチナ人アラブ党」、ハリディ派の「改革党」、ナーブルスを基盤とする「国民議員連合」が有名である。 一方で、武装蜂起を目指す地下軍事組織も少数ながら存在した。ツファット山を中心としたが1931年にイギリスが消滅させた「緑の手」や、ヘブロン市を中心としたアブドゥ・アル・カディー・アル・フサイニが率いる「聖なる抗争の為の組織」(1948年の第2次パレスチナ独立戦争で重要な役割を果たした)や、1935年からトゥルカーム市やカルキルヤー市を中心とする「反抗する若者」が有名である。伝統あるネビ・ムサ祭も政治・民族主義的意味合いを持ち始めた。1917年のバルフォア宣言を祝う11月2日の「バルフォアの日」や、「ヒッティーンの戦い記念日」(1187年6月4日にサラーフッディーン(1137年~1193年)がエルサレムを奪還した)、1930年5月16日から祝うようになった「パレスチナの日」といった国民の記念日が導入・追加された。教育の普及や市民社会・輸送・意思疎通・広報の発展の全てがこれらの変化を生み出した。
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