政治団体「明日の岡崎をきずく会」を設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:47 UTC 版)
「内田喜久」の記事における「政治団体「明日の岡崎をきずく会」を設立」の解説
1980年1月6日、岡崎商工会議所で中野の新年会が開かれた。中野は来賓の内田を前に、「私は死ぬまで代議士をやめません」と挨拶をした。禅譲を受ける望みを完全に絶たれた内田は1月7日、中野と面会し、「次の衆院選は岡崎から候補者を出したいと思います」と告げる。加えて、4期目の市長選に出馬したい意向を伝えると、中野は「おかしいじゃないか。君は長期政権はいかんと、太田君の4選阻止に立ったんじゃなかったのか」と反駁。両者は決裂した。 内田はすぐに次の手を打つ。同年1月11日、「全市総代会役員と議員の懇談会」と銘打った会合で、衆院選候補者擁立のための団体を結成すると発表。「われわれにご理解を」と自民党市議に説明させた。「理解」とは運営資金である。2月、「岡崎から代議士を」の掛け声のもと「明日の岡崎をきずく会」が結成される。事務所は八帖北町の岡崎建設業会館の2階に置かれた。 同年3月25日、「明日の岡崎をきずく会」は政治団体として正式に設立された。また同日、裏金作りのために、6年ほど前に設立した団体「新都市政策調査会」を新たに政治団体として設立した。3月末、代表の浅井正三市議と岩瀬信一市議会議長は、土木、建築、電気工事の各業界代表を岡崎建設業会館の2階に呼び集めた。管工事の代表(岡崎市管工事業協同組合理事長)は岩瀬自身であった。岩瀬は「秋に候補者を決めるまでの準備資金を各業界にお願いしたい。150万円までなら会の領収書を出す」と述べた。岡崎土木協力会では、加盟28社に対し、受注実績に応じて献金額を3ランクに割り当てた。関係者から批判があり、事務所は伝馬通4丁目に移された。 内田は次期総選挙を1982年頃と読んでいた。「1980年11月の総会で役員を選出し、200人程度の選考委員会を設置して候補者を擁立」というのが内田の筋書きだった。若手議員らは当初、会の進め方にそろって冷ややかだった。前年の県議選で内田の全面支援を受けて初当選した中根薫は同年3月頃、同僚の柴田尚道に「内田はもうやめる。次はナカシズ(中根鎭夫)を市長に推す」と言って接触。中根薫、柴田、中根鎭夫の三県議が酒を酌み交わしたという情報はただちに内田の耳に入り、中根の造反はあっけなく封じ込められた。 4月28日、三友ニット協業組合事件にからみ、協和染色社長の鈴木雅雄(旧名:鈴木正雄)が、中小企業振興事業団から繊維工業改善資金3,700万円をだまし取った容疑で逮捕された。当時市役所では「昇進には係長50万円、課長100万円の内田への付け届けが必要」と言われており、冷や飯組の市職員は「ようやく捕まったか。これでおやじ(市長)まで行く」と小躍りした。岡崎駅西土地区画整理事業において協和染色は1億8,420万円という巨額の工場移転補償費を受け取っていた。県警は内田の金権政治の解明に全力をあげた。鈴木はのちに証言している。 「詐欺容疑なんてほとんど聴かれなかった。警察は三友ニットの倒産もまるで関心がなかった。取調室に座るなり、『お前は内田にいくら渡した。5千万か。1億か』とたたみかけた。彼らが話題にしたかったのは90%までが内田のことだった」 5月1日、県警捜査二課と岡崎署の捜査員は市役所別館にある区画整理課に出向き、協和染色の土地交換についての書類を段ボールひと箱に詰めて持ち帰った。県警は内田に肉薄していたが、思わぬ出来事により捜査は挫折する。衆議院の解散であった。
※この「政治団体「明日の岡崎をきずく会」を設立」の解説は、「内田喜久」の解説の一部です。
「政治団体「明日の岡崎をきずく会」を設立」を含む「内田喜久」の記事については、「内田喜久」の概要を参照ください。
- 政治団体「明日の岡崎をきずく会」を設立のページへのリンク