放水路・分水路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:37 UTC 版)
利根川は江戸時代の利根川東遷事業以降河川の付替えが活発に実施されたが、河水を安全に流下させたり、平野部を流れる支流や分流の内水氾濫を防ぐ目的で放水路や分水路の建設も積極的に実施された。1920年に江戸川放水路が開削されたのを皮切りに、主に江戸川・中川流域を中心にした放水路の建設が進められた。 特に中川については平地主体でありダム建設の適地がないこと、下流に比べ上流域の流域面積が広く洪水の際には東京都内を中心に浸水被害の危険性が高く、カスリーン台風や狩野川台風(1958年)で大きな被害を受けていることもあり放水路による治水対策が堤防建設と共に図られた。1933年に東京都と埼玉県が中川・綾瀬川・芝川三川総合改修増補計画に基づいて中川、綾瀬川、芝川(荒川水系)に放水路を建設する計画を立て、戦争による中断を挟み1962年に中川と芝川の事業を完成させた。この時に開削されたのが中川と旧江戸川を繋ぐ新中川放水路(新中川)である。その後も内水氾濫防止を目的に中川と江戸川を連結する放水路整備が進められ、三郷・幸手・綾瀬川放水路、さらには世界最大級の地下河川である首都圏外郭放水路が建設されており、中川流域には5本の放水路が存在している。また利根川水系の各支流に合流する中小河川において、各自治体による河川改修による放水路が建設されている。 一方利根川本流に計画されている利根川放水路は1938年の利根川改修増補計画で我孫子市から印旛沼を経由し検見川を結ぶ昭和放水路計画として初登場し、以後利根川改訂改修計画・利根特定地域総合開発計画でも採用されたが莫大な事業費と流域の都市化による補償問題の難航が予想されることで手付かずとなり、長らく「幻の計画」であった。この間印旛沼の治水を目的に印旛放水路が建設されているが、利根川水系河川整備基本方針によって長門川・印旛放水路を拡幅し、印旛沼を洪水調節池に利用する形で利根川下流の治水を図る新放水路計画として再度事業化の方向性が示されている。霞ヶ浦から与田浦・外浪逆浦を経由して鹿島灘へ洪水を放流する霞ヶ浦放水路計画が増補計画や改訂改修計画で立案されたが、河口の維持や財政確保の困難さにより計画は中止され、常陸利根川の河道拡幅が代替事業として実施されている。
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