揖斐電時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 04:30 UTC 版)
大同電力から退いた後はしばらく浪人生活を送るが、東邦電力社長の松永安左エ門に声をかけられ、同社系列の電力会社揖斐川電気を紹介される。1939年6月、宮寺は同社の専務取締役に就任した。宮寺の専務就任翌年の1940年(昭和15年)、揖斐川電気は揖斐川電気工業株式会社に社名を変更している(その後1982年に再度社名を変更し現社名のイビデン株式会社となった)。 1942年(昭和17年)4月、揖斐川電気工業にも電力国家管理政策が及び、一部の設備を日本発送電および中部配電に出資して創業以来の電気供給事業から撤退、兼業であった電気化学工業に経営の主体を置くこととなった。また親会社東邦電力の解散に伴う役員の大幅異動が同年6月にあり、東邦電力出身の社長久留島政治は退任、宮寺が専務から社長に昇格して後任となった。以降、太平洋戦争戦時下・戦後復興期において同社の社長を務める。 戦後はカーバイド・肥料を中心とする経営からの脱却を志向し、カーバイド誘導品としてメラミン製造事業に手を着ける。揖斐川電気工業はカーバイド誘導工業への進出を1949年(昭和24年)に決定し、数年間の研究の末1954年(昭和29年)10月にメラミン製品の製造を開始した。また宮寺の発案により同社は電気式トンネル炉の建設に着手、親交のあった江副孫右衛門から1か月間の指導を受けてこれを完成させた。トンネル炉は映画館の映写機に映写光源として用いられる炭素アーク灯向けの炭素棒(カーボン)を製造するためで、1949年に完成し業界の注目を集めた。後に同社の映写機用炭素棒は全国シェアの4 - 5割を握るに至り、1958年(昭和33年)には製造工程の機械化に対し大河内記念生産賞が贈られた。このトンネル炉の建設は、同社の真価をはじめて世に問う出来事であったと評される。 1962年(昭和37年)5月、同じく大同電力出身の副社長須崎潔に社長職を譲って会長に就任する。会長となり第一線を退いてからは名鉄百貨店取締役なども務めた。なお社長在任中の1954年から2年間岐阜県公安委員会委員、次いで1956年(昭和31年)から2年間岐阜県教育委員会委員を務め、岐阜県の公安・教育行政にも携わり、後に藍綬褒章を受章している。1968年(昭和43年)8月1日、宮寺は揖斐川電気工業会長在任のまま、大垣市民病院で脳出血のため死去した。満76歳没。
※この「揖斐電時代」の解説は、「宮寺敏雄」の解説の一部です。
「揖斐電時代」を含む「宮寺敏雄」の記事については、「宮寺敏雄」の概要を参照ください。
- 揖斐電時代のページへのリンク