揖斐川電力との棲み分け
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 02:50 UTC 版)
「イビデンの水力発電所」も参照 岐阜電気が設立された日露戦争後の時期には、大垣で岐阜電気とは別に電気事業起業の動きが発生していた。これが揖斐川電力(現・イビデン)設立の発端であり、1906年11月に戸田鋭之助ほか18名の発起人で揖斐川支流坂内川(広瀬川)の水利権許可を取得するところまで起業準備が順調に進んだ。しかし1907年春に戦後恐慌が発生すると会社設立の延期が決定される。揖斐川電力発起人は当時大垣町のほか不破郡赤坂町・揖斐郡池田村(現・池田町)への電灯・電力供給を出願中であったが、会社設立の目途が立たないため、岐阜電気の請求に応じてこの地域における供給を暫定的ながら岐阜電気に認めることとなり、同年12月2日付で岐阜電気との間に覚書を交わした。覚書では揖斐川電力が開業した際には上記地域の電気工作物一切を揖斐川電力が岐阜電気から買い取るものとされた。その後岐阜電気がこれらの地域への供給を開始したことは前述の通りである。 1911年になると立川勇次郎の主導で起業手続きが再開され、翌1912年11月25日、揖斐川電力は会社設立に漕ぎつけた。最初の発電所として1913年11月揖斐郡藤橋村(現・揖斐川町)に西横山発電所(出力3,900 kW)を着工。発電所からは大垣変電所を経て海津郡城山村大字駒野(現・海津市南濃町駒野)の駒野変電所へ至る送電線を整備した。設備の建設が進む中、揖斐川電力では先の覚書に基づいて大垣その他における電灯・電力供給を引き渡すよう岐阜電気に請求したが、両社が主張する譲渡価格に大きな開きがあり交渉は難航した。結局逓信省の西部逓信局が仲裁に入り、1915年10月に西部逓信局長坂野鉄次郎が掲示した裁定案を元に、12月両社間に以下の内容からなる合意が成立した。 岐阜電気は揖斐川電力から1,000 kWの電力供給を受ける。 揖斐川電力の事業範囲は1邸宅または1構内につき200 kW以上の電力供給に限定し、その他の営業はすべて岐阜電気へ無償譲渡する。反対に岐阜電気は揖斐川電力の供給区域内では1邸宅または1構内につき200 kW以上の電力供給を行わない。 揖斐川電力がすでに建設した駒野変電所と配電線路・需要家屋内設備は実費をもって岐阜電気へ譲渡する。 1907年に両社間で交わされた覚書は破棄するものとし、その代償として岐阜電気は3万円を揖斐川電力へ支払う。 岐阜電気との棲み分けを確定させた揖斐川電力は、1915年12月1日、大垣変電所を通じ摂津紡績(現・ユニチカ)大垣工場への電力を供給して開業した。翌1916年(大正5年)6月からは岐阜電気への電力供給を始め、同年10月には先の合意に基づき駒野変電所と海津郡高須町・今尾町(現・海津市)の配電設備を岐阜電気へ引き渡した。 純粋な電力会社として発展する道を失った揖斐川電力では、大戦景気に乗じて電気化学工業への進出を積極化し、発電力を増強しつつその電力をカーバイド・フェロアロイ製造などに振り向けるという形で事業を拡大していき、1918年には社名を揖斐川電力から揖斐川電化へと改めた。
※この「揖斐川電力との棲み分け」の解説は、「岐阜電気」の解説の一部です。
「揖斐川電力との棲み分け」を含む「岐阜電気」の記事については、「岐阜電気」の概要を参照ください。
- 揖斐川電力との棲み分けのページへのリンク