授時暦の作成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 06:51 UTC 版)
当時、元では金以来採用されていた大明暦を修正した暦を使用していたが、日食・月食などの天文現象と合わないため、改正の必要が叫ばれていた。劉秉忠はたびたび改正を上表していたが、果たさずして死去した。それを受けて至元13年(1276年)、世祖は郭守敬・王恂・許衡らに暦法の修訂を命じる。当時、モンゴル帝国朝廷には色目人と呼ばれる西域出身の官僚も多くおり、彼らからアラビア天文学の技術も取材した郭守敬は、独自に簡儀・仰儀など13種類に及ぶ儀器を開発、正方案など9種類の測器を開発するなど、天体測定器を改良。これらによる精密な観測を元に様々な製図を行い、改暦作業を主導した。彼の測定による1朔望月29.530593日、1太陽年365.2425日は現在の水準と較べても極めて正確な値である。 同年工部中郎、至元16年(1279年)には工部太史院知事となり、監候官27箇所を設けてさらなる観測を敢行。至元17年(1280年)に一応の完成をみて世祖に提出、「授時暦」の名を賜った。早速授時暦はモンゴル帝国内外に頒布され、翌年から施行されることになった。この暦は元朝末期まで用いられ、さらに元を放逐して新たに立った王朝の明でも「大統暦」と名を変えたのみで利用され続けた。明末に西洋天文学を利用して作成された時憲暦が導入されるまで実に364年間使用され、中国歴代最長の暦法となった。 以後も郭守敬は暦法の研究を重ね、授時暦の暦法を論じた『授時暦経』(推歩7巻、立成(データ表)2巻)をはじめ、数々の暦書を著した。この暦書は周辺国へも輸出され、朝鮮半島における暦学書の精華ともいうべき李氏朝鮮の「七政算内篇・外篇」(1442年)にも大きく影響を与えた。日本へは江戸時代初期に輸入され、貞享暦の作成にも影響を与えている。
※この「授時暦の作成」の解説は、「郭守敬」の解説の一部です。
「授時暦の作成」を含む「郭守敬」の記事については、「郭守敬」の概要を参照ください。
- 授時暦の作成のページへのリンク