アラビア天文学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 21:42 UTC 版)
ローマ帝国滅亡後、ヨーロッパではアリストテレスの自然観がキリスト教の教義と結びつき、自然界を実証主義的に観察し計算し解釈するという古代ギリシャの自然哲学に代表される自然観は否定された。これによって天文学も停滞し、代わってアラビア科学のアラビア天文学が発達した。フワーリズミーは、インドの天文学や数学を取り入れて、代数学や数理天文学に関する著作を残した。バッターニーは私立天文台を設けて、41年間にわたって球面三角法を用いた正確な観測を行って、489個の星の恒星表を作った。また、観測から黄道傾斜角や太陽の遠地点の位置が移動することを発見し、黄道傾斜角を割り出した。そのほか、太陽の離心率、毎年の春分点の歳差の55"の値、太陽と月の運動の詳しい表、月の平均運動を改訂したり、太陽と月の大きさの変化を調べてプトレマイオスの天文学を改良した。このため恒星の固有名は大部分がアラビア語に由来している。また、アラビアでは暦法の改良などが行われた。
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