戦中 - 終戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:21 UTC 版)
1937年(昭和12年)、日中戦争が開戦後、女性の髪形の自粛が奨励され、廃業する電気パーマ店が出始めた。マヤは芝山みよかや牛山喜久子らと「火曜会」を結成し、パーマの延命に尽力した。しかし太平洋戦争期には東京空襲が激化し、やむを得ず新宿店を閉め、静岡県熱海へ疎開した。 終戦後、マヤは東京へ戻るとすぐ、GHQによりアメリカ軍婦人将校の美容を命ぜられた。美容の技術に加え、アメリカ留学による語学力を買われたのである。神田のヒルトップホテルに美容室がもうけられ、マヤは毎日そこへ通勤した。連合軍司令官ダグラス・マッカーサー夫人のジーン・マッカーサーへの応対には苦労したが、帰り際には必ず、当時の日本の貴重品であった高級石鹸を贈られた。 翌年頃よりGHQの仕事から解放され、新宿店を再開した。戦前の店のあった場所は戦争で焼け野原となっており、戦後の混乱の乗じて不法占拠する男性たちがいたが、マヤはマッカーサー夫人に訴えて、これを一掃させた。さらに麹町、熱海、名古屋と、支店を拡張した。 1951年(昭和26年)には、欧米美容事情探求の旅から帰国し、有楽町で記念ショーを開催した。女優の関千恵子や明美京子らをモデルとし、欧米の髪を発表した。読売新聞社主催ということもあり、会場は美容師であふれた。またパリ滞在中には「フランス通信」として、現地の美容の傾向を日本の新聞や雑誌社へ流した。 日本国内外で美容情報を積極的に提供することで、マヤの名は急速に高まった。美容文化の発信者としては、牛山喜久子と共に代表的な存在であった。日本国外では、ロサンゼルスの支店も設けた。
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