成漢建国
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李雄は配下の朴泰に偽装投降を命じ、朴泰は羅尚へ「郫城を攻撃すれば内から応じます」と伝えた。羅尚はこれを信じ、隗伯に命じて郫城を攻撃させた。李雄は敵軍が到来したのを見ると、朴泰に城内で火を挙げさせて合図を送り、城壁の外に梯子をかけて隗伯軍を招き、その付近に叔父の李驤の兵を伏せて配置した。隗伯の兵はこれを信じて梯子に駆け寄ったが、李驤の襲撃を受け大敗した。隗伯が逃走すると、李驤に命じて隗伯軍を追撃させた。李驤は成都少城まで至ると、万歳を唱えて「郫城を攻略したぞ!」と城内に向かって叫んだ。少城の兵士たちは味方が帰還したと思い、李驤軍を城内に迎え入れた。羅尚は異変に気づいて成都太城に撤退したが、隗伯は重傷を負っており、生け捕りとなった。李雄は彼を許した。 その後、李驤を犍為に派遣して羅尚の輸送路を断つよう命じた。李驤は犍為郡太守襲恢を捕縛して処刑した。 12月、李雄は羅尚の守る成都太城を急襲した。輸送路が断たれていたので羅尚軍は食糧が欠乏しており、羅尚は牙門張羅特を成都太城に残して夜闇に乗じて逃走した。張羅特は城門を開いて李雄に投降したので、李雄は完全に成都を制圧した。これにより、蜀の民は流散した。成都には食糧が無かったので、李雄は郪県に兵を派遣し、野芋等をかき集めて飢えを凌いだ。 304年、天師道の教祖范長生は当地において名望高い人物であったので、李雄は彼に統治を任せて臣従しようとした。だが、范長生はこれを固辞した。 李雄は常に謙虚に振る舞い、決して独断で政務を行わなかった。李国・李離の兄弟(李特の妹婿である李含の子)は智謀に長けていたので、李雄は事の大小に関わらず全てを関与させた。その為、彼らは更に力を尽くして李雄に仕えたという。 10月、諸将は李雄へ即位するよう強く勧めた。これを受け、李雄は成都王を号して領内に大赦を下し、建興と改元した。史書はこれを持って成漢の建国としている。 李雄は西晋の法を廃止し、簡略化した法を七章定めた。叔父の李驤を太傅に、兄の李始を太保に、折衝将軍李離を太尉に、建威将軍李雲を司徒に、翊軍将軍李璜を司空に、材官将軍李国を太宰に、その他の臣下にも格差をつけて官爵を授けた。曾祖父の李武を巴郡桓公、祖父の李慕を隴西襄王、父の李特を成都景王と追尊し、母の羅氏を王太后に立てた。 306年3月、范長生が質素な輿に乗って成都へと到来した。李雄は城門まで出向いて歓迎し、彼の為に席を設けて丞相に任じると、范賢と呼び敬った。 6月、范長生は李雄へ尊号を称するよう勧めた。李雄はこれを受けて帝位に昇り、大赦を下して晏平と改元した。また、国号を『大成』と定めた。 父の李特を景帝と追尊して廟号を始祖とし、母の羅氏を皇太后に立てた。また、范長生には天地太師の称号を加えて西山侯に封じ、その私兵の税を免除し、軍征への徴用も免除とした。 この時、建国したばかりで未だ明確な法式も存在しなかったことから、諸将は李雄の寵愛を受けようとして序列を争った。その為、尚書令閻式は上疏して漢や晋の制度を参考にして百官制度を定めるよう勧め、李雄はこれに従った。
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