成漢建国とは? わかりやすく解説

成漢建国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 14:56 UTC 版)

李雄 (成漢)」の記事における「成漢建国」の解説

李雄配下泰に偽装投降命じ泰は羅尚へ「郫城を攻撃すれば内から応じます」と伝えた羅尚はこれを信じ、隗伯に命じて郫城を攻撃させた。李雄敵軍到来したのを見ると、泰に城内で火を挙げさせて合図送り城壁の外に梯子をかけて隗伯軍を招き、その付近に叔父李驤の兵を伏せて配置した。隗伯の兵はこれを信じて梯子駆け寄ったが、李驤襲撃を受け大敗した。隗伯が逃走すると、李驤命じて隗伯軍を追撃させた。李驤成都少城まで至ると、歳を唱えて「郫城を攻略したぞ!」と城内向かって叫んだ。少城の兵士たち味方帰還した思い李驤軍を城内迎え入れた羅尚異変に気づいて成都太城に撤退したが、隗伯は重傷負っており、生け捕りとなった李雄は彼を許したその後李驤犍為派遣して羅尚輸送路を断つよう命じた李驤犍為郡太守襲恢を捕縛し処刑した12月李雄羅尚の守る成都太城を急襲した輸送路が断たれていたので羅尚軍は食糧欠乏しており、羅尚牙門張羅特を成都太城に残して夜闇乗じて逃走した。張羅特は城門開いて李雄投降したので、李雄は完全に成都制圧した。これにより、蜀の民は流散した。成都には食糧無かったので、李雄は郪県に兵を派遣し、野等をかき集めて飢え凌いだ304年天師道教祖范長生当地において名望高い人物であったので、李雄彼に統治任せて臣従ようとした。だが、范長生はこれを固辞した李雄は常に謙虚に振る舞い決し独断政務を行わなかった。国・李離兄弟李特妹婿である李含の子)は智謀長けていたので、李雄は事の大小関わらず全て関与させた。その為、彼らは更に力を尽くして李雄仕えたという。 10月諸将李雄即位するよう強く勧めた。これを受け、李雄成都王を号して領内大赦下し建興改元した。史書はこれを持って成漢建国としている。 李雄西晋の法を廃止し簡略化した法を七章定めた叔父李驤太傅に、兄の李始太保に、折衝将軍李離太尉に、建威将軍李雲司徒に、翊軍将軍李璜司空に、材官将軍国を太宰に、その他の臣下にも格差をつけて官爵授けた曾祖父武を巴郡桓公祖父慕を隴西襄王、父の李特成都景王追尊し、母の羅氏王太后立てた306年3月范長生質素な輿に乗って成都へと到来した李雄城門まで出向いて歓迎し彼の為に席を設けて丞相任じると、范賢と呼び敬った6月范長生李雄尊号称するよう勧めた李雄はこれを受けて帝位昇り大赦下して晏平改元した。また、国号を『大成』と定めた。 父の李特景帝追尊して廟号始祖とし、母の羅氏皇太后立てたまた、范長生には天地太師称号加えて西山侯に封じ、その私兵の税を免除し、軍征への徴用免除とした。 この時、建国たばかり未だ明確な法式存在しなかったことから、諸将李雄寵愛受けようとして序列争った。その為、尚書令閻式上疏して漢や晋の制度参考にして百官制度定めるよう勧め李雄はこれに従った

※この「成漢建国」の解説は、「李雄 (成漢)」の解説の一部です。
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