思わぬ脚光 ・知られざるドラマ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 06:31 UTC 版)
「クラフトワーク」の記事における「思わぬ脚光 ・知られざるドラマ」の解説
以前に比べ活動が表面的には停滞していく傍ら、1982年には以前ヒップホップを定義したアフリカ・バンバータがクラフトワークの曲を当初無断で利用して「エレクトロ・ファンク」という新しいサウンドを生み出す。特に楽曲『ヨーロッパ特急』の一部が取り入れられたPlanet Rock(英語版)はローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500の半ばにランクインする等、ヒップ・ホップファン以外からも非常に高く評価されている。 更に同時期ホアン・アトキンスが若きデリック・メイにクラフトワークとイエロー・マジック・オーケストラを教え、影響を与えたことがハウス・ミュージックに対するよりスピリチュアルなアティチュードを表すテクノ(デトロイト・テクノ)の起源となる等、黒人ミュージシャン達が生み出した新しい音楽ジャンルへの思わぬ影響によってダンス・ミュージックを含めたクラブ・カルチャーからもリスペクトされるようになり、以後クラフトワークも少なからず音楽的にその影響を受けるようになる。これにより元々高かったラルフの国際感覚も一層高いものになっていった。これら米英のテクノミュージシャン達とのコラボレーションは後のExpo 2000(英語版)のリミックスやライヴヴァージョンでのリ・リミックスで果たされる。 コンピューター・ワールド・ツアーの経験から、彼等は長期的なツアーをより逞しくこなすための体力作りに菜食主義やサイクリング(やがて生死の境目をさまよう事故にまで繋がってしまったラルフの熱中ぶりは他のメンバーを遥かに凌いでいた)を始めた。これら新たな経験や有名な自転車競技大会から着想された楽曲ツール・ド・フランス(英語版)が映画ブレイクダンスで使用されアメリカでヒットする。 ほとんど知られていないことだが音楽業界の各所にいた何らかの形でクラフトワークの協力を欲していた人間の一人に彼らの大ファンであったマイケル・ジャクソンがいた。マイケルにザ・マン・マシーンのオリジナル・マルチ・トラックの使用を申し込まれたがグループのスポークスマンであるラルフはマイケルの生前、それを正式には認めなかった。余談だがニューヨークにマイケルが所有していたビルに招かれたラルフは「マイケルの“フェイク”が3人も4人も存在し、クラフトワークよりもクラフトワークらしかった」と語った。 現在クラフトワークの音楽はジェームス・ブラウンに次いで最もDJ用のレコードにサンプリングされていると言われて久しいものの、新しいアルバムの発表とツアー、その他新たな試みに飢えていたヴォルフガングとカールは苦悩しつつも80年代末と90年にグループから離脱してしまう(グループの実権を握っていたのはあくまでも創立者であり所謂マネージャーを持とうとはしないラルフとフローリアンであった)。 しかしながら自身のソロ公演でクラフトワークに在籍した頃に作曲した曲を現在でも演奏するカールはグループ脱退後もラルフとフローリアンを尊敬しており、先述したように多くのアーティストとのまたとないようなコラボレーションのチャンスをことごとく拒絶したことを「打ち解けない連中」とも「ドラマチック」とも表現した。 一方ヴォルフガングは後に自身の半生と共にクラフトワークでの日々を綴った「ICH WAR EIN ROBOTER (クラフトワーク ロボット時代)」を発表。内容を巡りラルフ・フローリアンと訴訟沙汰にまでなる(もっとも、彼自身についても赤裸々に描かれているが)。ファンにとってはプライベートの詳細をほとんど語らないクラフトワークを知るための貴重な情報源ともなった(彼らのパブリック・イメージを信じていたファンにとっては少なからず抵抗もあったようである)。
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