御幣の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 23:23 UTC 版)
日本人は、古墳時代の頃から、即ち、日本国家の創成期、神話の時代から、神々に対し、貴重な品々、「幣帛」を捧げてきた。 それらは、稲(米)、酒(みき、酒造技術)、塩、魚などの神饌(みけ)の他、鉄製の武器(刀剣類)や農工具(=製鉄・鍛造技術)・器・玉(=宝飾加工技術)・鏡(=鋳造・研磨技術)・衣類・布類(=養蚕・製糸・織布技術)など、その時代の最先端技術を象徴する物でもあった。また、これらの品々は、神々の霊魂が宿る依り代、神々の象徴でもあった。 その後、奈良時代後半から平安時代前期にかけて、幣帛は特に布類を指すようになる。 捧げ方も多様化し、折り畳んだ布を串(=「幣挿木」(へいはさむき))に挿んで捧げる形式が登場する。この幣挿木が現代の御幣へとつながっていく。幣挿木が神々への捧げ物だと示すため、捧げ物本体である「幣帛」(=布類)とともに、神聖性を表現する「木の皮の繊維(これを「木綿」という)や麻」を、串に挿んで垂らしたのである。 時代が経つにつれ、「幣帛」に、「布」に代わって「紙」を用いるようにもなる。「紙」もまた、当時の貴重な品であった。この際も「木綿・麻」を垂らしていたが、その代わりに、細長く折り下げた紙を両側に垂らす形式も見られるようにもなる(13世紀末頃)。これを「紙垂」(しで)と呼ぶ。 室町時代から江戸時代にかけて、榊(玉串・真榊)の他、神前に御幣を捧げる形が普及・定着化し、中世以降の御幣は、捧げ物本体である「幣紙」と神聖性を示す「紙垂」とそれらを挿む「幣串」から成る構造が、一般的となる。 その後、御幣の基本的な構造に変わりは見られないが、祭のたびに幣紙・紙垂部分が新調され、紙垂を大きく作る形式も広まっていった。木綿・麻と同様に細かった紙垂は、徐々に太く大きくなり、挿む位置も上部になる例が多く見られるようになった。やがて、幣紙と紙垂が一体化した形式も現れることになる。 その特徴的な造形から、次第に紙垂部分が強調されていき、白紙の他、染色した紙や金属製の紙垂部分を持つ御幣も現れ、紙垂の持つ印象はさらに強くなっていった。 今でこそ、「紙垂」こそが御幣の象徴として認識されることもあるが、元来の捧げ物としての性格を受け継ぐのは、その中心である「幣帛」部分であり、そこには、各時代における最上の品が用いられていた。こうして、神話の時代から現代まで捧げられ続けているのが、「御幣」なのである。 その由来から、元々は神に捧げるものであったが、後に、社殿の中に立てて「神の依代」あるいは「御神体」として、あるいは祓串のように参拝者に対する「祓具」として、も用いるようにもなった。 なお、長い棒や竹の先端に幣束を何本か取付けたもののことを、特に「梵天」(ぼんてん)という。 紙が普及する以前は、ヤナギ、ニワトコ、ヌルデ、クルミ、マツなどの木の肌の一部を薄く削ぎ、渦状にちぢらせて残し垂らしておく「飾り棒削り掛け」も、御幣の古い形の祭具として用いられた。「削り花」(削花、ハナとも)、「穂垂」(ほたれ)、「掻垂」(かいたれ)とも。アイヌにも同様のイナウがある。
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