後期:第四共和政・ドゴール体制のもとで
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「フランス社会党 (SFIO)」の記事における「後期:第四共和政・ドゴール体制のもとで」の解説
ナチス・ドイツからの解放後、1945年に行われた総選挙でSFIOは142議席を獲得し人民共和運動(MRP / Mouvement Républicain Populaire)・共産党に次ぐ第三党の地位を占め、フランス共和国臨時政府で上記3党による連立政権を実現するとともに第四共和国憲法の制定に大きな役割を果たした。しかし第四共和政樹立後の1947年に発足したSFIOのラマディエ政権はゼネストをめぐって共産党と対立し同党の閣僚を罷免、続いて大学問題をめぐってMRPとも決裂したため、3党体制は崩壊しラマディエ政権は同年のうちに倒閣に追い込まれた。 その後SFIOは急進党・民主社会主義抗戦同盟(UDSR / Union Démocratique et Socialiste de la Résistance)・社会共和派(CNRS / Centre National des Républicains Sociaux)と「共和戦線」(RF / Republican Front)を結成、議会内の「第三勢力」を形成し存在感を保った。これを背景に1956年1月、ギー・モレ政権が成立、第四共和政では最も安定した社会党政権となった(~1957年5月)。しかし同政権はスエズ戦争やアルジェリア独立戦争に直面して失点を重ね、これらの問題をめぐって党内にも深刻な対立が生じた。 アルジェでの反乱をきっかけに政界に復帰したド=ゴールが1958年首班として組閣すると、翌1959年SFIOは国務相のギー・モレを入閣させ、第五共和国憲法の制定にも協力したが、このような党主流派の政策に不満なデプルー(Édouard Depreux)らは離党し独立社会党(PSA / Parti Socialiste Autonome)を結成した。しかしSFIO自体は第五共和政発足後、急速に反ド=ゴールに傾き下野、急進党などとともに民主社会左翼連盟(FGDS / Fédération de la gauche démocrate et socialiste)を結成、FGDSは1965年の大統領選挙で共産党とともにフランソワ・ミッテラン候補(共和制度協議会(CIR / Convention des Institutions Républicaines))を推し、当選には至らなかったものの第2回投票で当選者ド=ゴールの得票率55%に対して45%を獲得する善戦を果たした。そして1967年の総選挙では社共提携が功を奏して、SFIOは116名の議席を有する野党第一党の地位を占めた。
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