後期~解散、P-MODELへ
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「マンドレイク (バンド)」の記事における「後期~解散、P-MODELへ」の解説
関の後任としてプログレバンド「破天荒」のベースで、新●月のメンバーとも親交のあった阿久津徹が加入。 この頃平沢の兄裕一率いる演出チーム「ディバイス・マンドラゴラ」を結成。高価な機材を安く手に入れることに成功したこともあり、金持ちバンドとして見られていた。 この時期にはレコードデビューの話が持ち上がっていたが、メンバーはセックス・ピストルズの台頭を知りプログレの終焉を予感しており、それまでの大作主義からも脱却し、後にP-MODELのナンバーとなるニュー・ウェイヴやパンク・ロック的手法を用いた曲を演奏するようになる。 1978年、シンセサイザーのデモ演奏のアルバイトに応募し、後に平沢ソロにも参加した神尾明朗と知り合う。彼の勧めで週刊プレイボーイのシンセサイザー多重録音コンテストに応募し、作品「いりよう蜂の誘惑」が審査委員であった冨田勲の称賛を受けて入賞。アルバム『SYNTHETIC SPACE 恐るべき頭脳集団』に収録されメジャーリリースされた。 その後、平沢と田中は田崎和隆率いるバッハレヴォリューションに参加し、その伝手でモーグ・シンセサイザーが置いてある東京のとある一室で二人はクラシック曲や日本の童謡のテクノアレンジに挑戦する。このセッションは後に『配線上のアリア』として発表された。同時期にYAMAHAのシンセサイザー教室の講師の仕事を得、折茂昌美や後にP-MODELメンバーとなる菊池達也、隣のピアノ教室に通っていた、同じくメンバーとなる三浦俊一と出会うきっかけとなる。 1978年12月に行われたラストライブでは前半にプログレ曲、後半にニューウェーブ曲を演奏するなどこれからのP-MODELの活動を暗示する演出がなされ、秋山も演出に参加していた。 1979年1月1日解散。プログレへの未練から阿久津が離れ、秋山を迎えて同日にP-MODELを結成した。
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