後期~解散、P-MODELへとは? わかりやすく解説

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後期~解散、P-MODELへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 01:07 UTC 版)

マンドレイク (バンド)」の記事における「後期~解散、P-MODELへ」の解説

関の後任としてプログレバンド「破天荒」のベースで、新●月メンバーとも親交のあった阿久津徹が加入この頃平沢の兄裕一率い演出チーム「ディバイス・マンドラゴラ」を結成高価な機材安く手に入れることに成功したこともあり、金持ちバンドとして見られていた。 この時期にはレコードデビューの話が持ち上がっていたが、メンバーセックス・ピストルズ台頭知りプログレ終焉予感しており、それまで大作主義からも脱却し、後にP-MODELナンバーとなるニュー・ウェイヴパンク・ロック手法用いた曲を演奏するうになる1978年シンセサイザーデモ演奏アルバイト応募し、後に平沢ソロにも参加した神尾明朗知り合う彼の勧め週刊プレイボーイシンセサイザー多重録音コンテスト応募し作品いりよう誘惑」が審査委員であった冨田勲称賛受けて入賞アルバムSYNTHETIC SPACE 恐るべき頭脳集団』に収録されメジャーリリースされた。 その後平沢田中田崎和隆率いるバッハレヴォリューションに参加しその伝手でモーグ・シンセサイザー置いてある東京のとある一室二人クラシック曲日本童謡のテクノアレンジに挑戦する。このセッションは後に『配線上のアリア』として発表された。同時期にYAMAHAシンセサイザー教室講師仕事を得、折茂昌美や後にP-MODELメンバーとなる菊池達也、隣のピアノ教室通っていた、同じくメンバーとなる三浦俊一出会うきっかけとなる。 1978年12月行われたラストライブでは前半プログレ曲、後半ニューウェーブ曲を演奏するなどこれからP-MODEL活動暗示する演出がなされ、秋山演出参加していた。 1979年1月1日解散プログレへの未練から阿久津離れ秋山迎えて同日P-MODEL結成した

※この「後期~解散、P-MODELへ」の解説は、「マンドレイク (バンド)」の解説の一部です。
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