後年、興味と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:51 UTC 版)
「オリバー・ボスビーシェル」の記事における「後年、興味と死」の解説
ボスビーシェルは1893年2月にフィデリティ国定生命保険会社の副社長に選出されていた。同年12月、その代わりに財務官に選出され、1908年まで続けることになった。ウィリアム・マッキンリー大統領が、分析評価委員会1898年の委員にボスビーシェルを指名した。 1893年9月、フィラデルフィア造幣所で大きな窃盗事件が発生した。計量係のヘンリー・コクランが1887年に封じられた金庫室から密かに金の延べ棒を抜き取っていた。その部屋は一体型のドアが無く、格子のドアがあったが、幾らか緩かった。ボスビーシェルは前任者のダニエル・M・フォックスからフィラデルフィア造幣所の資産を引き継いだときに、金の重量を測ることを求められなかった。1893年に金を持ち出して貨幣に鋳造されたときに、その不足が分かった。幾らかの金は取り戻されたが、それでも12,810.82ドル相当の金が不足し、ボスビーシェルが1894年に辞任した後で政府は彼を訴え、彼と担保の保証人に対して不利な判断を確保した。ボスビーシェルはアメリカ合衆国控訴裁判所第3巡回裁判所に控訴したが、結局不利な裁定が下った。地区裁判所は、無くなったと言われた銀貨733ドルについては、ボスビーシェル有利の裁定とし、金だけを問題にした。ボスビーシェルは最高裁判所の審査を求めたが、議会による救済も求め、1899年2月2日、議会がその法的責任を回避させ、訴訟を無効にした。 1898年、米西戦争が勃発し、ボスビーシェルはペンシルベニア州軍第19連隊を編成してその連隊長を務め、祖国防衛に使われた。この任務は1898年8月から1899年11月まで続いた。 ボスビーシェルはグランドアーミー・オブ・レパブリックの他にも多くのことに興味を持ち活動した。聖公会教会では、フィラデルフィア救い主教会の教区委員となった。長年聖歌隊を指揮し、日曜学校にも関わり、監督官ともなった。自分の連隊の戦時の経験を記念するために1895年には『戦中の第48連隊』を出版した。その他にも幾つか退役兵の団体に加入した。ロッジ・オブ・メイソンズ大学の理事会議長を務めた。系譜学に興味を抱き、1910年頃に『クリスチャンとエリザベス(オリバー)・ボスビーシェルの子孫たち、1782年-1910年』を出版した。 オリバー・ボスビーシェルは卒中を患った後の1921年8月1日に死んだ。その後には子供の1人、オリバーと数人の孫たちが残った。妻のマーサとの間には4人の息子が居た。マーサは1914年に死亡していた。長男のネイサンは23歳の1888年にロサンゼルスで死んでいた。
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