後年、記念と記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/03 02:21 UTC 版)
「ハリー・マクニッシュ」の記事における「後年、記念と記録」の解説
マクニッシュはこの遠征後に商船海軍に戻り、様々な船に乗務した。ジェイムズ・ケアード号の航海中に耐えた状態のためにその骨がずっと痛むとこぼすことが多かった。その痛みのために握手するのを拒むこともあったと言われている。1918年3月2日にリジー・リトルジョンと離婚しており、その時までに新しいパートナーとなるアグネス・マーティンデールと出逢っていた。マクニッシュにはトムという息子がおり、マーティンデールにはナンシーという娘がいた。ナンシーのことはマクニッシュの日記に度々記述されているが、マクニッシュはナンシーの父ではなかったと見られる。マクニッシュはその人生で通算23年間海軍で過ごしたが、最後はニュージーランド・シッピング社で職を確保した。ニュージーランドまで5回旅行した後の1925年に移住し、その妻と大工道具全てを後に残した。ウェリントンのウォータフロントで働いていたが、けがをしてその経歴も終わった。極貧の中で、桟橋の防水布に覆われた上屋で眠り、造船工から毎月集められた募金で生活した。オヒロ慈善ハウスに居場所を見つけたが、健康が悪化を続け、1930年9月24日、ウェリントン病院で死んだ。1930年9月26日にウェリントンのカロリ墓地に海軍の礼葬で埋葬された。HMSダニディン(このときたまたま港に居た)から12人が礼砲を撃ち、8人が棺を担いだ。しかし、マクニッシュの墓はその後30年間も表示の無いままとなっていた。1959年5月10日、ニュージーランド南極協会が墓石を建造した。2001年、その墓はほったからしで、雑草に囲まれていたと報告されたが、2004年、ニュージーランド南極協会が墓の外観を整え、マクニッシュが愛した猫のミセズ・チッピーの等身大銅像が墓の上に置かれた。マクニッシュの孫であるトムは、このことが極圏メダルを受けるよりも価値があると考えている。 1958年、イギリス南極測量隊が、サウスジョージア島のキングホーコン湾に入る所にある小さな島にマクニッシュ島(McNeish)と名付けた。1998年、イギリス南極地名委員会に提出されたこの島はマクニッシュの出生証明書に従い、McNish島と改名された。2006年10月18日、マクニッシュの故郷であるポートグラスゴーの図書館で、小さな楕円形の壁型銘板記念碑が除幕され、その年前半にはグリーノックのマクリーン博物館美術ギャラリーで、マクニッシュを主題にした展示会が行われた。マクニッシュの日記はニュージーランドのウェリントンにあるアレクサンダー・ターンブル図書館に保管されている。
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