張家軍
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「大水滸シリーズの登場人物」の記事における「張家軍」の解説
宋禁軍の将軍だった張俊が童貫戦死後、北京大名府を拠点に組織した独立勢力。岳家軍同様に軍閥というべき存在。創設当初から新兵を加え、大軍を擁する。梁山泊・金とは敵対し岳家軍とは不干渉、南宋の命令は無視していた。金の傀儡国家「斉」に組し、斉禁軍を号するが離反。南宋所属の軍閥となる。 張俊 (楊令伝)張家軍の首領。方臘の乱では畢勝の指揮下で戦い、その才能を高く評価された。乱後、畢勝の遺した評価に基づき禁軍将軍へ抜擢される。梁山泊戦に参加し劉光世と共に暦亭戦線で戦うが、旧方臘軍を率いる韓成を相手に方臘戦でのトラウマが再発。工兵隊・水軍との連携にも追い詰められて大敗、羌肆の支援を受け脱出する。童貫戦死後は北京大名府を拠点に張家軍を興し、一国を背負う将軍になるという野心を抱く。独自に暗躍する扈成とは互いに利用しあう関係にあり、彼を介して斉へ合流、斉禁軍の総帥となる。だが情勢の変化により、抗金を叫んで南宋に鞍替えする。 軍人としては非凡だが、身の処し方や消極的な戦いぶりから劉光世からの評価はあまり高くない。張俊もかつて同僚であった劉光世を上司として仰ぐことをよしとせず、秦檜直属であるかのように振る舞う。その秦檜からは機を見るに敏であり評価すべき人材だが、信義が無い、と評価されている。戦力も数は多いが、食い詰め者が多いため一部を除いて質は低い。自由市場を展開して南宋を追い詰める梁山泊軍を岳家軍と迎撃するが、対峙の間に兵站を断たれたため潰走する。 史実でも南宋の軍閥の首領。出自は軍人ではなく匪賊。いわゆる招安を受け南宋の軍閥となった。史実上の宋では招安を受けた匪賊、野盗が宋禁軍の中でも大きな比率を占めたが、本作では童貫、劉光世の方針のもと徴兵と選別による精鋭主義が採られているという設定のため、それに従い張俊の出自も変更されている。 (岳飛伝)引き続き長江の北辺に展開、南宋の前衛を務める。後退戦術が得意でそこそこに精強な軍を維持していたが、秦檜の策により辛晃と切り離され徐々に軍人としての牙を抜かれていく。臨安府に召還され、劉光世に替わる時期禁軍総帥とされるが実質的には秦檜の傀儡と化している。 厳徳 (楊令伝)張俊の副官。元は禁軍で斥候隊に所属していた時期がある。「軍人は命令に従い行動する」という軍人として典型的な信念を持つ。裏で動き回る扈成を嫌っている。 顔儀 (楊令伝)張俊の双頭山攻略戦の際、張俊と厳徳の会話の中で登場。撤収する歩兵の護衛を命じられる。 辛晃 (楊令伝)元は賊徒。斉禁軍だった張俊に討伐され、捕虜となる。後に彼の従者を務める。 (岳飛伝)張家軍の精鋭を指揮するが優遇はされていなかった。それゆえ王貴が指揮する商隊を襲い、荷を強奪したことがある。張俊に恩を感じていたが、勇猛さを失いつつある姿に失望。秦檜の意を受けた許礼の説得により張俊から離れ、独自に金軍と戦う。張家軍で培った後退戦術を得意とするが、兀朮には張俊がまともに育てれば見事な軍人になったと評される。 人情を捨てきれず素直な面もあるが、そこを許礼に利用される形で朝廷の側へ組み込まれていく。金との講和成立後は南方の制圧を命じられ、岳飛と秦容を相手に戦うことになる。岳飛との関係は悪くないといった相違点はあるが、出自など『岳飛伝』での辛晃は史実における張俊に近い扱いとなっている。
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