弁護士、州議会議員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/17 10:00 UTC 版)
「クリストファー・ゴア」の記事における「弁護士、州議会議員」の解説
ゴアはアメリカに戻ってから間もなく州の政界に復帰し、マサチューセッツ州上院議員に当選した。州の連邦党組織内で活動的であり、秘密の中央委員になった。法律実務を再開し、ダニエル・ウェブスターを徒弟にした。扱った事件の中でも著名なものは、1807年にチャールズ・オースティンの殺人罪で告発されたトマス・セルフリッジを弁護したことだった。セルフリッジは連邦党の古参弁護士であり、オースティンの共和党員の父から負債を集めるのを支援するために雇われていた。当時のボストンは政治的に緊張した雰囲気にあり、セルフリッジは身の安全が脅かされることを恐れ、決闘用の拳銃で武装していた。息子のオースティンは明らかに自身の発案でセルフリッジを杖で撃とうとしたので、セルフリッジが出合い頭にオースティンを銃で撃って致命傷を負わせた。セルフリッジは検事総長のジェイムズ・サリバン(ゴアにとっては後の知事選で対抗馬)に起訴された。弁護団には連邦党の大物ハリソン・グレイ・オーティスも含まれていた。ゴアはセルフリッジが自己防衛で行動したと論じた。セルフリッジ裁判の陪審員長は愛国者で連邦党のポール・リビアであり、15分の検討時間でセルフリッジの殺人容疑について無罪を回答した。 ゴアはまた帰国してから事業の方も再開していた。幅広く事業やインフラ建設に投資し、州内の経済活動を活性化させていた。その投資範囲は、海上保険(義父がそれで財産を築いていた)、橋、閘門、運河、繊維など広いものだった。ミドルセックス運河、クレイギー橋(ボストンとケンブリッジを初めて繋いだ橋)、ボストン・マニュファクチャリング会社の主要な投資家だった。ボストン・マニュファクチャリング会社の繊維を一か所で生産する試験工場がゴアの資産に近いウォルサムにあった。その投資の全てがうまくいった訳ではなかった。運河は長い目で見れば経営面での失敗であり、クレイギー橋のケンブリッジ側にあるレクミアポイント開発のために、他の協力者との努力も同様だった。しかし、繊維工場は成功であり、メリマック・マニュファクチャリング会社にも投資した。現在のローウェル市に立地することを決めたとき、ローウェル運河を運営するプロプライエターズ・オブ・ロックス・アンド・キャナルズの株式を購入した。この会社は今も運河を所有している。 1806年、ゴアはマサチューセッツ州上院議員選挙で当選した。同年、州議会は民主共和党が多数派であり、州知事選挙に至っては接戦だったので、票の再集計が行われたほどだった。議会派党派的なやり方で投票箱を精査した。例えば、民主共和党のジェイムズ・サリバンの名前の綴りを誤った票を集計に入れ、連邦党のケイレブ・ストロングに入れられた同様な票を無効にした。ゴアや連邦党の他の議員が大衆の抗議の声を上げさせたので、議会が折れて、最終的にストロングを当選とした。 ゴアは1807年と1808年に州知事選挙に出馬したが、州内では民主共和党が上げ潮であり、2回とも中道的な民主員のジェイムズ・サリバンに敗れた。連邦党は1808年に、民主共和党の経済政策に対する反動として、州議会を制することになったが、州の大型商船隊にとって大きな否定的効果を生むことになる通商禁止法に対して、州全体で抗議したのをゴアが積極的に支持しなかったことで批判された。ゴアは1808年に州議会下院議員に当選し、大統領選挙人団の選出では連邦党側のものを選ばせることに成功した。トーマス・ジェファーソンの外交政策についてジョン・クインシー・アダムズ上院議員が支持したことで、アダムズを連邦党から追い出す急先鋒になった。議会はアダムズの後継者を9か月前に選んでおり、アダムズに不快な指示を与えたので、アダムズは議員を辞職し、民主共和党に加わることになった。
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