幻の「鰻香内閣」
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1914年3月24日の総辞職を受け、元老たちが最初に後継首班に推薦したのは貴族院議長で徳川宗家16代当主(15代将軍徳川慶喜の養嗣子)の徳川家達であった。だが、徳川氏一門の中には明治維新の際に新政府が強引に徳川氏を朝敵とした事を未だに快く思わない者もおり、家達に迫って辞退をさせてしまった。 そこで3月31日に元老会議は改めて清浦を後継首班に推薦したのを受けて、清浦は大正天皇より組閣の大命を受けた。そこで清浦は平田や宗像政(東京府知事)とともに組閣を開始した。陸軍の方は軍の長老である山縣の強い後押しで岡市之助を陸軍大臣に内定した。その他の大臣も海軍大臣以外はほぼ内定したが、清浦の意向によって貴族院や官僚出身者が占めるいわゆる超然内閣の色彩の強いものとなった。 これに対して4月2日に立憲政友会と立憲国民党が超然内閣反対決議を採択して清浦新内閣の野党になる事を宣言した。更に海軍も、清浦が海軍大臣就任を希望していた加藤友三郎海軍中将(第一艦隊司令長官)が斎藤実前海軍大臣とともに予算案の否決で中止された新艦艇建造計画の復帰とその予算復活を求めたところ、4月6日に清浦がこれを拒絶したことから、海軍大臣の推薦を事実上拒絶した。そもそも、新艦艇計画中止のきっかけとなった予算案否決は平田が主導して清浦も乗ったものであり今更復活させるわけにはいかず、当時は軍部大臣現役武官制が山本内閣当時に政党主導による改正で緩和されていたもののそれに反対した清浦が予備役の起用を行うわけにもいかず、遂に4月7日に組閣を断念したのである。その結果、今度は大隈重信に大命が降下されて4月16日に大隈重信内閣が成立した。 清浦は組閣辞退の直前に記者団に対して「大和田の前を通っているようなもので、匂いだけはするが、御膳立てはなかなか来ない」とぼやいた。大和田とは当時人気の鰻屋のことで、前を通っていると美味しい匂いはするが、中に入れば混雑していていつまで待ってもうな丼にはありつけないという有様を組閣の現状に重ね合わせたものであったが、世間はうなぎの匂い(大命降下)だけで結局うな丼(首相の地位)にはありつけなかった清浦を嘲笑してこれを「鰻香内閣」(匂いだけで現実には味わえない幻の内閣)と呼んだのである。
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