幻の「徳川内閣」
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1914年(大正3年)3月26日に山本内閣が総辞職したのを受けて、27日に元老会議が開かれたが、その場で組閣を勧められた松方正義は老齢を理由に辞退し、代わりに貴族院議長の家達を推挙した。山縣有朋は「徳川公は中正の人にして、門閥と云ひ徳望と云ひ、首相とするに申分なし」と述べつつも「行政上の経験」もなく「其の手腕力量の如何を知ら」ない点が不安で、そもそも家達が組閣の大命を拝受するか疑問を呈した。それに対して松方は平田東助や平山成信といった貴族院議員たちに状況を聴取したうえで判断すると述べて散会となった。元老会議が平田と平山の意見を聴取することとしたのは山本内閣を倒閣に追い込んだ貴族院(特に幸倶楽部派)の意向を重視したためだった。家達が貴族院議長として貴族院の反発を受けない人物であることが貴族院対策として重要だったからである。また家達は政友会との関係が良好だったから「徳川内閣」なら衆議院対策も安定すると考えられた。 平田は、家達が組閣するなら「貴族院は全体一致にて之を歓迎」するだろうが、家達が大命を拝受するかは不明であり、事前に家達に意向聴取すると恐らく拝辞すると思われるので「出し抜け」に大命降下した方が家達が受け入れる可能性が高いと報告した。そのため元老会議は事前に家達に打診せずにただちに家達を奏推することで決定し、元老たちは参内し大正天皇の後継首相の下問に対してその旨を奉答。大正天皇はこれを認め、家達に参内を命じた。 3月29日10時に参内した家達に大正天皇より組閣の大命があった。即答を避けて翌日奉答するとして退下したが、内大臣伏見宮貞愛親王に対しては「行政につきて何等の経験もなく、今日の難局に処する所以につきても、亦何等自信なし、万一自ら量らずして、大命を奉じ、徒らに紛糾を重ぬるが如きことありては、却って不忠不臣の責を免かれ」ないので拝辞する意向を示した。 元老会議は平山を家達の千駄ヶ谷邸に派遣して説得にあたったが、平山によればこの時も家達は「時局につきて何らの自信もなく、且つ是れまでに平大臣にても務めたる経験あらば兎も角も、曾て何らの経験もなきに、徒らに大命を拝受しては、却って不忠不義の臣」になるため拝辞すると述べたという。家達の決意が固いことを確認した元老会議は「徳川内閣」を断念し、次の候補者選定を開始した。結局第2次大隈内閣が成立するのだが、三週間もの政治的空白が生じる事態となった。 しかし組閣に失敗しての大命拝辞ではなかったので、この件が家達の大きな政治的失点になることはなく、この後も貴族院議長に在職し続けた。当時の『東京朝日新聞』(大正3年3月30日)も格別の自信があるならともかく、ただ漫然と大命を拝受するのはやめた方がよく、何か問題があれば本人のみならず一門全体にも迷惑がかかることになる、まだまだ春秋に富む身であり、今後も君国に尽くす機会はあるはずなので今回は拝辞が賢明であるという旧臣の貴族院議員某の意見を載せている。
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