巧みな外交と「マハザン川の戦い」
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「サアド朝」の記事における「巧みな外交と「マハザン川の戦い」」の解説
1555年、アアラジュが死ぬと、弟ムハンマド・アッ=シャイフが王位を継ぎ、西方への進出を狙うオスマン帝国対策としてアルジェリアの港町オランにいるスペイン人と協定を結ぶ一方、アブドゥル・マリクとアフマドをスレイマン1世のもとに奉仕させ、その褒美としてゴレッタ港を与えられるなど、巧みな二面外交を行った。この方針は、1557年、アッ=シャイフの長子ムーライ・アブドゥッラー(在位:1557年 - 1574年)が後を継いでからも継承され、アブドゥッラーは、バディーのスペイン人と結ぶ一方、経済政策に力を注ぎ、ワッタース家時代に廃道になっていたサハラ越えの隊商ルートを復旧させた。1574年にポルトガル王が旧領回復を意図して侵入するか、大した戦闘は起こらずにポルトガル軍は引き上げていった。同年、アブドゥッラーの子ムハンマド・アル=ムタワッキル(アブー・アブドゥッラー・ムハンマド2世)が即位するが、2年後に、叔父のアブドゥル・マリク(アブー・マルワン・アブド・アル=マリク1世)に王位を奪われたため、ムタワッキル王は、旧敵ポルトガルのドン・セバスチャン王(セバスティアン1世 (ポルトガル王))を頼った。十字軍編成の願望が強く、多少の奇行で知られるこのポルトガル王は、アフリカ北部の旧領を回復して交易拠点を築き、発言力を強化したい目的からアル=ムタワッキルと同盟し、1578年、騎士軍を率いて再度モロッコに侵入した。アブドゥル・マリクは、これを同年8月4日にジブラルタル海峡の南方数十キロしか離れていないラーライシュとアルジーラの中間を流れるルッコス川とその支流マハザン川周辺で迎え撃った。この戦いは、モロッコでは、「マハザン川の戦い」と言い、ポルトガルでは、ドン・セバスチャン王が戦死して本土がスペインの支配下に入る契機を作ってしまったことから、アルカセル・キビールの惨事と呼ばれる。また、ポルトガル王とサアド朝の前王と現王が会戦を行ったことから、「三王の戦い」とも呼ばれる。緒戦は、アブドゥルマリク麾下のサアド朝軍が異教徒撲滅の聖戦意識に燃えて善戦したが、やがてじわじわとポルトガル軍の優れた火器が威力を示し始め、サアド朝軍は戦略的に後退を行った。勢いに乗るポルトガル軍は、これを追撃したが、ここにサアド朝の伏兵と騎兵が側面から攻撃をかけた。ポルトガル・アル=ムタワッキル連合軍はこの包囲攻撃で総崩れとなり、サアド朝軍の反撃に対抗できずに打ち破られて敗走した。この戦いでは、ポルトガル王もアル=ムタワッキルも、また戦いには勝ったものの、アブドゥル・マリク自身も戦死した。アブドゥル・マリクを継いで王位に就いたのは、王弟アフマドである。
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