巧みな外交と「マハザン川の戦い」とは? わかりやすく解説

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巧みな外交と「マハザン川の戦い」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/15 08:04 UTC 版)

サアド朝」の記事における「巧みな外交と「マハザン川の戦い」」の解説

1555年、アアラジュが死ぬと、弟ムハンマド・アッ=シャイフ王位継ぎ西方への進出を狙うオスマン帝国対策としてアルジェリア港町オランにいるスペイン人協定を結ぶ一方アブドゥル・マリクアフマドスレイマン1世のもとに奉仕させ、その褒美としてゴレッタ港を与えられるなど、巧み二面外交行ったこの方針は、1557年アッシャイフ長子ムーライ・アブドゥッラー(在位1557年 - 1574年)が後を継いでからも継承されアブドゥッラーは、バディースペイン人と結ぶ一方経済政策に力を注ぎ、ワッタース家時代廃道になっていたサハラ越え隊商ルート復旧させた。1574年ポルトガル王旧領回復意図して侵入するか、大した戦闘起こらずポルトガル軍引き上げていった。同年アブドゥッラーの子ムハンマド・アル=ムタワッキル(アブー・アブドゥッラー・ムハンマド2世)が即位するが、2年後に、叔父アブドゥル・マリク(アブー・マルワン・アブド・アル=マリク1世)に王位奪われたため、ムタワッキル王は、旧敵ポルトガルのドン・セバスチャン王(セバスティアン1世 (ポルトガル王))を頼った十字軍編成願望強く多少奇行知られるこのポルトガル王は、アフリカ北部旧領回復して交易拠点築き発言力強化したい目的からアルムタワッキル同盟し1578年騎士軍を率いて再度モロッコ侵入したアブドゥル・マリクは、これを同年8月4日ジブラルタル海峡南方数十キロしか離れていないラーライシュとアルジーラ中間流れるルッコス川とその支流マハザン川周辺迎え撃った。この戦いは、モロッコでは、「マハザン川の戦いと言いポルトガルでは、ドン・セバスチャン王が戦死して本土スペイン支配下に入る契機作ってしまったことから、アルカセル・キビールの惨事呼ばれるまた、ポルトガル王サアド朝前王と現王が会戦行ったことから、「三王の戦い」とも呼ばれる緒戦は、アブドゥルマリク麾下サアド朝軍が異教徒撲滅聖戦意識燃えて善戦したが、やがてじわじわポルトガル軍優れた火器威力示し始めサアド朝軍は戦略的に後退行った勢いに乗るポルトガル軍は、これを追撃したが、ここにサアド朝伏兵騎兵側面から攻撃をかけた。ポルトガル・アル=ムタワッキル連合軍はこの包囲攻撃総崩れとなり、サアド朝軍の反撃対抗できずに打ち破られ敗走した。この戦いでは、ポルトガル王アルムタワッキルも、また戦いには勝ったものの、アブドゥル・マリク自身戦死したアブドゥル・マリク継いで王位就いたのは、王弟アフマドである。

※この「巧みな外交と「マハザン川の戦い」」の解説は、「サアド朝」の解説の一部です。
「巧みな外交と「マハザン川の戦い」」を含む「サアド朝」の記事については、「サアド朝」の概要を参照ください。

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