山田方面とは? わかりやすく解説

山田方面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 15:13 UTC 版)

伊勢暴動」の記事における「山田方面」の解説

早馬瀬の河原集まった農民一部と、飯野郡射和村現在の松阪市射和町)や飯高郡茅原現在の松阪市茅原町)から集まった農民多気郡相可村現在の多気郡多気町相可)、度会郡田丸現在の度会郡玉城町田丸)などで協力者集め山田目指した。多気郡斎宮現在の多気郡明和町斎宮)に集まっていた農民らの一部も、山田答志郡鳥羽現在の鳥羽市)を目指し行進始めた田丸には12月20日朝に数百人の一揆隊が到達したが、戸主らは早く町を通過してもらうため炊き出し準備整えており、おにぎりと酒を一揆隊に振る舞った。これにより田丸被害はなく、一揆隊は上地川端小俣いずれも現在の伊勢市内)へ進んでいった。 伊勢神宮では、12月20日午後1時に神宮教田丸教会所から暴動情報得て小宮司以上の神階を持つ山田在住神官外宮参集殿集い防御方針話し合った午後2時頃には宮川はさんで山田向かい合う小俣(おばた)に一揆群衆集まり山田側に「暴動趣旨賛同しないなら乱入する」と申し入れ山田側の戸長区長同意示した。ここで小俣一揆隊の一部松阪引き返したが、同日午後11時過ぎに、現在の伊勢市南西部にあたる度会郡上野村円座村・佐八村(そうちむら)・大倉村農民竹槍持って宮川の「上の渡し」の河原現れ山田対岸度会郡磯村高向村・長現在の伊勢市南部にある度会郡前山村農民合流した山田住民棍棒持ってこれに備えた。 翌12月21日午前2時頃、約2000人の一揆隊は小川町現在の伊勢市中島二丁目)から山田突入八日市場町の農社に放火したのを皮切りに山田師範学校三重県山田支庁小学校三井銀行支店病院などの新政府と関係のある施設襲った他との違いは、特権有する商人であった地主の家も焼き討ち遭ったということである。中島浦口常盤大世古で町が炎上し外宮別宮月夜見宮類焼懸念されたため、神体安全な風宮移した火災午前11時に収束し心配された神宮への放火破壊活動はなかった。12月21日夜に士族との戦い敗れ12月22日深夜0時頃に三重県派遣した警部以下40名が神社港かみやしろこう)に上陸して神宮警備に就き12月23日警視庁警部が、12月24日鎮台兵派遣され抑え込まれた。 山田92戸の焼失27戸の破壊という被害を受け、一揆隊に酒食提供した田丸山田戸長らは処分された。 旧志摩国域に相当する答志郡英虞郡現在の鳥羽市志摩市)では伊勢暴動直接的な影響被害はなかったが、暴動翌年である1877年明治10年)から1878年明治11年)にかけて合法的な手段嘆願書伺書提出して不当に高い地位等級引き下げ要求する運動展開された。

※この「山田方面」の解説は、「伊勢暴動」の解説の一部です。
「山田方面」を含む「伊勢暴動」の記事については、「伊勢暴動」の概要を参照ください。

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