山田方面
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早馬瀬の河原に集まった農民の一部と、飯野郡射和村(現在の松阪市射和町)や飯高郡茅原村(現在の松阪市茅原町)から集まった農民は多気郡相可村(現在の多気郡多気町相可)、度会郡田丸村(現在の度会郡玉城町田丸)などで協力者を集め、山田を目指した。多気郡斎宮(現在の多気郡明和町斎宮)に集まっていた農民らの一部も、山田・答志郡鳥羽(現在の鳥羽市)を目指して行進を始めた。田丸には12月20日朝に数百人の一揆隊が到達したが、戸主らは早く町を通過してもらうため炊き出しの準備を整えており、おにぎりと酒を一揆隊に振る舞った。これにより田丸に被害はなく、一揆隊は上地、川端、小俣(いずれも現在の伊勢市内)へ進んでいった。 伊勢神宮では、12月20日午後1時に神宮教院田丸教会所から暴動の情報を得て、小宮司以上の神階を持つ山田在住の神官は外宮参集殿に集い、防御の方針を話し合った。午後2時頃には宮川をはさんで山田と向かい合う小俣(おばた)に一揆の群衆が集まり、山田側に「暴動の趣旨に賛同しないなら乱入する」と申し入れ、山田側の戸長・区長は同意を示した。ここで小俣の一揆隊の一部は松阪へ引き返したが、同日午後11時過ぎに、現在の伊勢市南西部にあたる度会郡上野村・円座村・佐八村(そうちむら)・大倉村の農民が竹槍を持って宮川の「上の渡し」の河原に現れ、山田対岸の度会郡磯村・高向村・長屋村と現在の伊勢市南部にある度会郡前山村の農民も合流した。山田住民は棍棒を持ってこれに備えた。 翌12月21日午前2時頃、約2000人の一揆隊は小川町(現在の伊勢市中島二丁目)から山田に突入、八日市場町の農社に放火したのを皮切りに、山田師範学校・三重県山田支庁・小学校・三井銀行の支店・病院などの新政府と関係のある施設を襲った。他との違いは、特権を有する商人であった地主の家も焼き討ちに遭った、ということである。中島・浦口・常盤・大世古で町が炎上し、外宮別宮の月夜見宮の類焼が懸念されたため、神体を安全な風宮へ移した。火災は午前11時に収束し、心配された神宮への放火や破壊活動はなかった。12月21日夜には士族との戦いに敗れ、12月22日深夜0時頃に三重県の派遣した警部以下40名が神社港(かみやしろこう)に上陸して神宮の警備に就き、12月23日に警視庁の警部が、12月24日に鎮台兵が派遣され、抑え込まれた。 山田は92戸の焼失、27戸の破壊という被害を受け、一揆隊に酒食を提供した田丸や山田の戸長らは処分された。 旧志摩国域に相当する答志郡や英虞郡(現在の鳥羽市・志摩市)では伊勢暴動の直接的な影響や被害はなかったが、暴動の翌年である1877年(明治10年)から1878年(明治11年)にかけて合法的な手段で嘆願書や伺書を提出して、不当に高い地位等級の引き下げを要求する運動が展開された。
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