山代二子塚とは? わかりやすく解説

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山代二子塚

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山代二子塚古墳

(山代二子塚 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/01 02:36 UTC 版)

山代二子塚古墳
墳丘(左に前方部、右奥に後方部)
所属 山代・大庭古墳群
所在地 島根県松江市山代町(字二子塚)
位置 北緯35度26分20.88秒 東経133度5分14.95秒 / 北緯35.4391333度 東経133.0874861度 / 35.4391333; 133.0874861座標: 北緯35度26分20.88秒 東経133度5分14.95秒 / 北緯35.4391333度 東経133.0874861度 / 35.4391333; 133.0874861
形状 前方後方墳
規模 墳丘長94m
埋葬施設 横穴式石室?
出土品 須恵器埴輪
築造時期 6世紀中葉-後半
史跡 国の史跡「山代二子塚」
地図
山代
二子塚古墳
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150 m
ガイダンス山代の郷
山代二子塚古墳
山代・大庭古墳群の古墳分布図

山代二子塚古墳(やましろふたごづかこふん)は、島根県松江市山代町にある古墳。形状は前方後方墳。山代・大庭古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(指定名称は「山代二子塚」)。

概要

山代・大庭古墳群[1]
古墳名 墳形 埋葬施設 築造時期 史跡指定
大庭鶏塚古墳 造出付方墳 不明 6c前半-中葉 国の史跡
山代二子塚古墳 前方後方墳 横穴式石室? 6c中葉-後半 国の史跡
山代方墳 方墳 石棺式石室 7c初頭 国の史跡
山代原古墳 方墳 石棺式石室 7c前半 なし

島根県東部、松江市南郊の茶臼山西麓の微高地(乃木段丘)上に築造された大型前方後方墳である。大庭鶏塚古墳山代方墳山代原古墳とともに、大型後期古墳群である山代・大庭古墳群を形成する。1908年明治41年)に後方部墳丘が削平され、1925年大正14年)の『島根縣史』に全国で初めて「前方後方墳」の名称とともに記述されているほか、1990年度(平成2年度)以降に発掘調査が実施されている。

墳形は前方後方形で、前方部を西南西方向に向ける。墳丘は2段築成。墳丘外表では上段にのみ葺石が認められるほか[2]円筒埴輪形象埴輪(四つ足動物脚部)・須恵器(出雲型子持壺、伝世品に有蓋高坏)が出土している[3]。墳丘周囲には長方形の周溝・外堤が巡らされており、周溝の幅は約5-7メートルを測り、周溝を含めた規模としては長さ約104メートル・幅約70メートル[4]、外堤を含めた規模としては長さ約150メートルにおよぶ[3]。埋葬施設は未調査のため明らかでないが、墳丘断面の地中レーダー探査によれば横穴式石室と推測され、石室全長10メートルにおよぶ大型石室と見積もられる[4]。副葬品は詳らかでない。

築造時期は、古墳時代後期の6世紀中葉[4][3]または後半[5][6][7](山陰須恵器編年II期新段階-III期古段階[3])頃と推定される。山代・大庭古墳群の他の古墳とともに、出雲地方東部の最高首長墓に位置づけられるとともに、「前方後方墳」という名称が初めて使用された学史上としても重要な古墳である。

古墳域は1924年大正13年)に国の史跡に指定されている。現在では史跡整備のうえで公開されている。

遺跡歴

  • 1908年明治41年)、陸軍歩兵第63連隊の松江市津田村古志原への移転に伴い、射撃練習場等の施設設置の際に後方部墳丘東半の削平。
  • 1924年大正13年)12月9日、「山代二子塚」として国の史跡に指定(大庭鶏塚古墳と同時)[8]
  • 1925年(大正14年)、旧『島根縣史』第4巻に記載。野津左馬之助が全国で初めて「前方後方墳」の名称使用。
  • 1980-1981年昭和55-56年)、墳丘測量調査(島根大学法文学部考古学研究室、1983年に報告)。
  • 1990-1991年度(平成2-3年度)、史跡整備事業に伴う範囲確認調査:第1・2次調査(島根県教育委員会、1992年に報告)[9]
  • 1994-1995年度(平成6-7年度)、史跡整備事業に伴う範囲確認調査:第3・4次調査(島根県教育委員会、1996年に報告)。
  • 1996-1997年度(平成8-9年度)、史跡整備事業:後方部東半復元・墳丘盛土土層見学施設整備(島根県教育委員会、2001年に報告)[3]
  • 1998年(平成10年)3月、古墳南側にガイダンス山代の郷が開館[3]
  • 2000年度(平成12年度)、土地買い上げ後の環境整備工事に伴う発掘調査(島根県教育委員会、2001年に報告)[10][3]
  • 2017年(平成29年)2月9日、史跡範囲の追加指定[8]

墳丘

後方部墳丘断面オルソ画像
右半に横穴式石室推定輪郭線。

墳丘の規模は次の通り[3]

  • 古墳総長
    • 外堤を含めた古墳全体の規模:長さ約150メートル[3]
    • 周溝を含めた古墳全体の規模:長さ約104メートル、幅約70メートル[4]
  • 墳丘長:推定復元94メートル
  • 後方部
    • 長さ:推定復元57メートル
    • 幅:53メートル
    • 高さ:約8メートル
  • くびれ部
    • 幅:約33メートル
  • 前方部
    • 幅:約55メートル

後方部は明治期に3分の1が削平されているが、現在は復元され、墳丘盛土土層見学施設が整備されている。墳丘周囲に巡らされた周溝は、後方部南辺で墳丘南側に大きく張り出しており、何らかの施設の存在を示唆する[7]

埋葬施設

埋葬施設は明らかでないが、後方部の墳丘断面における地中レーダー探査によれば、横穴式石室の存在が推測される。石室の規模は、全長10メートル・高さ4.5メートル程度と見積もられ、長大な石室となる可能性がある[7]

文化財

国の史跡

  • 山代二子塚 - 1924年(大正13年)12月9日指定、2017年(平成29年)2月9日に史跡範囲の追加指定[8]

関連施設

脚注

  1. ^ 島根県教育庁埋蔵文化財調査センター編『山代原古墳』 風土記の丘地内遺跡発掘調査報告書26、島根県教育委員会、2022年。
  2. ^ 続日本古墳大辞典 2002.
  3. ^ a b c d e f g h i 山代二子塚古墳整備事業報告書 2001.
  4. ^ a b c d 島根県の地名 1995.
  5. ^ 松江市史 史料編2 考古資料 2012.
  6. ^ 史跡説明板。
  7. ^ a b c 山代二子塚(島根県「山陰史跡探訪」)。
  8. ^ a b c 山代二子塚 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  9. ^ 風土記の丘地内遺跡発掘調査報告VIII 1992.
  10. ^ 山代二子塚古墳 2001.

参考文献

(記事執筆に使用した文献)

関連文献

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 「山代二子塚」『島根の文化財』 第3集、島根県教育委員会、1963年。  - リンクは奈良文化財研究所「全国文化財総覧」。
  • 渡辺貞幸「松江市山代二子塚古墳をめぐる諸問題 -測量調査の成果と今後の課題-」『山陰文化研究紀要』第23号、島根大学、1983年3月、213-242頁。  - リンクは島根大学学術情報リポジトリ。
  • 『風土記の丘地内遺跡発掘調査報告XI -山代二子塚古墳 付:東百塚山古墳群-』島根県教育委員会、1996年。 

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