小規模事業者の整理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 00:18 UTC 版)
上記の通り、頼母木案の電力国家管理政策は発送電事業の民有国営を目指すものである。その一方で配電事業に関しても方針を定めており、形態は民営・公営のままの現状維持とするが、供給区域の整理統合や電力の卸売り料金を通じて監督を徹底する、とされていた。 その配電事業は当時、小規模事業者の数があまりに膨大であるという問題を抱えていた。1936年末の段階で資本金500万円未満の電気供給事業者は519に上っていたのである。これらの小規模事業は、大規模事業者が採算上不適当と判断して供給にあたらなかった地域の住民が立ち上げたものや、大戦景気に乗じて設立されたものが多い。従って採算性の悪い事業が大半で個人事業的なものも多く、半数近くが低配当か無配当・赤字経営であった。 逓信省では、1937年5月の逓信局長会議にて小規模事業者の整理統合の方針を具体化した。その内容は、小規模事業者を付近の大規模事業者に統合させ、事業の改善や普及促進、料金の格差縮小を目指すというものである。6月末には、東京地方逓信局が管内事業者の代表者を招致し小規模事業者の整理統合を慫慂する、という具体的な動きがあった。こうした逓信省の方針に従い、以後全国規模で事業統合が活発化し、1937年から1940年までの4年間で211件の事業統合が成立した。一例として業界大手の事例を挙げると、1941年までの5年間で東京電灯は40事業を統合(買収・合併)し、東邦電力は34事業を買収している。 発送電事業を国家管理に移す電力国家管理政策については、1937年6月に林内閣にかわって第1次近衛文麿内閣が成立すると、逓信大臣に就任した民政党の永井柳太郎により再び進展がみられるようになる。永井案は、特殊会社に対する規制によって国家管理を実現するという「民有民営」形態を採り、特殊会社には全国の電気事業者から主要火力発電設備と主要送電設備を出資させるが水力発電設備を出資対象から外す、という頼母木案から後退したものとなった。これらを盛り込んだ新たな「電力国策要綱」は同年12月27日の閣議で承認され、翌1938年(昭和13年)1月15日よりそれらを法案化した「電力管理法」案などの国会審議が始まった。長い国会審議の末、同年3月26日可決に至る。こうして1938年4月5日に電力管理法・日本発送電株式会社法・電気事業法中改正法ほか1法が公布され、翌1939年(昭和14年)4月1日日本発送電株式会社が発足、電力国家管理が実行に移された。 日本発送電の設立に関連し、設立と同日の1939年4月1日より施行された改正電気事業法には、供給区域の整理統合のため事業者に対し事業譲渡命令を発令できる権限を逓信大臣に付与する条項(第26条第2項)が追加された。
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