小林旭との短い結婚・離婚後とは? わかりやすく解説

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小林旭との短い結婚・離婚後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:41 UTC 版)

美空ひばり」の記事における「小林旭との短い結婚・離婚後」の解説

1962年小林旭結婚出会い雑誌企画した対談の場だった。交際始めるが、小林結婚をまだ考えていなかったに関わらず、ひばりが入れあげ、父親代わりでもあった田岡一雄に、自分意志小林伝えるよう頼んだ。ひばりの意を汲んだ田岡小林結婚強引に迫ってきたので、小林断れ1962年昭和37年)に結婚した喜美はこの結婚快く思っていなかったようで、人生で一番不幸だったのは娘が小林結婚したこと、人生で一番幸せだったのは小林離婚したことだと後に公言して憚らなかったほどである。小林は「結婚生活でのひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『徹子の部屋』述懐している。小林入籍希望していたが、ひばりの母不動産処分の問題があるからと断られ続け入籍しておらず、戸籍上ではひばりは生涯にわたり独身であった。ひばりは一時的に仕事セーブするようになるが、実母にしてマネージャーである喜美周辺関係者二人の間に絶え間なく介入し結婚生活はままならなかった。また、ひばりも歌に対す未練残したままだったため、仕事少しずつ再開し小林求めた家庭の妻として傍にいてほしいという願いも叶わなかった。また結婚した1963年には、増吉が肺結核により52歳亡くなっている。 別居後の1964年、わずか2年あまりで小林離婚。ひばり親子頼まれ田岡から会見2日前に、「おまえと一緒にいることが、ひばりにとって解放されていないことになるんだから、別れてやれや」と引導を渡され、逆らうことは出来なかったと小林自著述べている。記者会見別々に開かれ小林会見には田岡プロ社長嘉山一郎同席した小林は「本人同士話し合わない別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って理解離婚踏み切った」と説明。この「理解離婚」という言葉当時流行語となった。「未練いっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と離婚小林本意でなかったとも語っている。 その1時間半後にひばりも田岡同席してもらい、記者会見行った。ひばりは田岡口添えされながら、「理由お話したいのですが、それを言ってお互いに傷つける」「自分幸せになる道を選んだ」と答えた。また「私が芸を捨てきれないことに対す無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」とも語り今後舞台を主に頑張ると語った離婚直後発表した『柔』は東京オリンピックともあいまって1965年にかけて大ヒットした。180万枚という、当時のひばりとしては全シングルの中で最大ヒット曲となった。この曲で1965年第7回日本レコード大賞受賞1966年には『悲しい酒』が145万枚売り上げ1967年には『芸道一代』、ポップス調の楽曲でグループ・サウンズジャッキー吉川ブルーコメッツとの共演ミニスカート衣装大きな話題となり、140万枚売り上げた真赤な太陽』と、ひばりの代表作となる作品次々と発表され健在ぶりを示した

※この「小林旭との短い結婚・離婚後」の解説は、「美空ひばり」の解説の一部です。
「小林旭との短い結婚・離婚後」を含む「美空ひばり」の記事については、「美空ひばり」の概要を参照ください。

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