寡作な作家生活
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「ギュスターヴ・フローベール」の記事における「寡作な作家生活」の解説
『ボヴァリー夫人』を完成させたフローベールはすぐに『聖アントワーヌの誘惑』の改作を試み、その後古代カルタゴを舞台にした『サランボー』に取り掛かった。作品ごとに膨大な資料を読み込み文体を練り上げる創作方法のため、フローベールは以後数年に1作のペースで少数の作品を発表していくことになる。 1858年には『サランボー』の舞台を見て回るためチュニスを旅行し、さらに数年をかけ1862年に『サランボー』を完成。前作から一転した壮麗な古代小説に当惑した批評も多かったものの評判となり、ボードレールやゴーティエ、ユゴーらも賛辞を送った。中でも心のこもった評を書いたジョルジュ・サンドにフローベールは感動し、以後この老作家との親しい付き合いがはじまった。またこの頃にサント・ブーヴの夕食会でツルゲーネフと対面し意気投合、気の知れた仲間となる。1863年にはゴンクール兄弟とともにナポレオンの姪マティルド皇女の晩餐に招かれ、彼女のサロンにも出入りするようになった。皇帝ナポレオン3世にも拝謁し、1866年にはレジオン・ドヌール勲章を受け取っている。 1869年、自らの青春時代をモデルにした自伝的な作品『感情教育』を出版する。凡庸な青春時代をゆったりとした時間の流れと繊細な心理描写で描き出した本作はフローベールの自信作であったが、批評家の徹底した無理解にさらされ、わずかにサンドやゾラからの評価を得たに過ぎなかった。本もほとんど売れず、フローベールはひどく気落ちすることになる。『感情教育』の失敗後は『聖アントワーヌの誘惑』にみたび取り掛かるが、普仏戦争の拡大により中断を余儀なくされた。1872年に書き上げると、すぐに最後の作品となる百科全書的な小説『ブヴァールとペキュシェ』の構想を得た。 1873年には『ブヴァールとペキュシェ』をしばらく置いて戯曲『立候補者』を書くも、手ひどい興行的失敗に合う。1875年、財産管理を任せていた姪の夫エルネスト・コマンヴィルが破産し、あおりを受けて生活が窮乏する。フローベールはゾラやツルゲーネフら友人たちの奔走で得られた公的年金、ユゴーの働きかけで得られた、出勤義務のない図書館の出向職員の地位を屈辱に感じつつ甘んじて受け取った。こうした経済的な不安によって『ブヴァールとペキュシェ』は中断を余儀なくされ、『三つの物語』を書いて気を取り直した後で1877年にようやく執筆を再開、以後はこの長編に全力を傾けた。 晩年には新しい世代の作家からも巨匠として認められるようになり、アメリカからヘンリー・ジェイムズの訪問も受けた。また晩年のフローベールは旧友の甥モーパッサンを愛弟子としてことのほか可愛がり、自作の売れ行きにも増して彼の作品の成功を気にかけていた。1880年、『ブヴァールとペキュシェ』の完成を見ずしてクロワッセの自宅で死去。遺体はルーアンの記念墓地に葬られた。
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