寡作な作家生活とは? わかりやすく解説

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寡作な作家生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 05:47 UTC 版)

ギュスターヴ・フローベール」の記事における「寡作な作家生活」の解説

ボヴァリー夫人』を完成させたフローベールはすぐに『聖アントワーヌの誘惑』の改作試みその後古代カルタゴ舞台にした『サランボー』に取り掛かった作品ごとに膨大な資料読み込み文体練り上げる創作方法のため、フローベール以後数年に1作のペース少数作品発表していくことになる。 1858年には『サランボー』の舞台見て回るためチュニス旅行し、さらに数年をかけ1862年に『サランボー』を完成前作から一転した壮麗な古代小説当惑した批評多かったものの評判となり、ボードレールゴーティエユゴーらも賛辞送った中でも心のこもった評を書いたジョルジュ・サンドフローベール感動し以後この老作家との親し付き合いはじまった。またこの頃サント・ブーヴ夕食会ツルゲーネフ対面し意気投合、気の知れた仲間となる。1863年にはゴンクール兄弟とともにナポレオンの姪マティルド皇女晩餐招かれ、彼女のサロンにも出入りするようになった皇帝ナポレオン3世にも拝謁し1866年にはレジオン・ドヌール勲章受け取っている。 1869年、自らの青春時代モデルにした自伝的な作品感情教育』を出版する凡庸な青春時代をゆったりとした時間の流れ繊細な心理描写描き出した本作フローベール自信作であったが、批評家徹底した無理解さらされわずかにサンドゾラからの評価得たに過ぎなかった。本もほとんど売れずフローベールはひどく気落ちすることになる。『感情教育』の失敗後は『聖アントワーヌの誘惑』にみたび取り掛かるが、普仏戦争拡大により中断余儀なくされた。1872年書き上げると、すぐに最後作品となる百科全書的小説ブヴァールとペキュシェ』の構想得た1873年には『ブヴァールとペキュシェ』をしばらく置いて戯曲立候補者』を書くも、手ひどい興行的失敗に合う。1875年財産管理任せていた姪の夫エルネスト・コマンヴィルが破産し、あおりを受けて生活が窮乏するフローベールゾラツルゲーネフ友人たち奔走得られ公的年金ユゴー働きかけ得られた、出勤義務のない図書館出向職員地位屈辱感じつつ甘んじて受け取ったこうした経済的な不安によって『ブヴァールとペキュシェ』は中断余儀なくされ、『三つの物語』を書いて気を取り直した後で1877年にようやく執筆再開以後はこの長編全力傾けた晩年には新し世代作家からも巨匠として認められるようになり、アメリカからヘンリー・ジェイムズ訪問受けた。また晩年フローベール旧友の甥モーパッサン愛弟子としてことのほか可愛がり自作売れ行きにも増して彼の作品成功を気にかけていた。1880年、『ブヴァールとペキュシェ』の完成見ずしてクロワッセの自宅死去遺体ルーアン記念墓地葬られた。

※この「寡作な作家生活」の解説は、「ギュスターヴ・フローベール」の解説の一部です。
「寡作な作家生活」を含む「ギュスターヴ・フローベール」の記事については、「ギュスターヴ・フローベール」の概要を参照ください。

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