実用化の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 01:55 UTC 版)
製造された揮発油を航空燃料として使うには追加工程が必要なため、レシプロ機に使われたという公式記録はないが、「松根油」と書かれたドラム缶を飛行場で見たという証言もあり他の燃料と混合し代用ガソリンとして使用したと推測されている。実際に1945年6-8月頃、北京市の南苑飛行場にあった第5航空軍の第28教育飛行隊では、飛行機の燃料が不足して2,3日に1度の発着をすることしかできなくなっていたため、日本から送られてきた松根油を混ぜた燃料を積んで試験飛行を行い、傾斜角度をつけて旋回したり、垂直旋回したりしたところ、エンジンが詰まり、プロペラが止まったため、部隊長らは相談して「松根油を使うときは、傾斜15度以上の急旋回はすべからず」という珍命令を出した。高田(1989)の著者で、第28教育飛行隊の操縦者だった高田英夫は、それでは旅客機並みの機体操作しかできず、戦闘機がおとなしい旋回をしていたらたちまち撃ち落とされてしまうと考え、命令を聞いて情けないやら、くやしいやらで腹が立ってきた、と回想している。 海軍ではターボジェットエンジンを搭載した橘花への使用を目指し、テスト飛行時に松根油を含有する低質油での飛行に成功した。終戦直前には一定量を確保していたが横浜大空襲で貯蔵施設が火災に遭い失われたとされる。この火災の黒煙を見た昭和天皇は米内光政から松根油が燃えた煙だと聞くと「松根油は農民が苦労して集めたものではないか。至急消すよう」と言ったとされる。海軍ではパルスジェットエンジンを搭載した梅花への使用を計画していたが機体完成前に終戦となった。 戦後残された松根油は民間に放出され代用ガソリンとして使用されており、旧陸軍が放出した無線機の発電用エンジンを使用したモペッドにも使われていたという。なお、米国戦略爆撃調査団およびシャウプ使節団のメンバーとして来日したことのあるジェローム・B・コーヘンによると、進駐軍が松根油をジープの燃料として試験的に用いてみたところ、数日でエンジンが止まって使い物にならなくなった。また、饒村曜はカスリーン台風で山間部の土砂災害が多発したのは、松根油精製のため広範囲に松が伐採され手入れもされなかったことが原因の一つと指摘している。
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