安島丹後守久成とは? わかりやすく解説

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安島丹後守久成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/11 08:46 UTC 版)

安島久成」の記事における「安島丹後守久成」の解説

安島久成 (丹後守)(あじま ひさしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将本姓藤原氏家系藤原秀郷流の安島氏戦国大名佐竹義宣家臣受領名丹後守山形県新庄市立図書館編『郷土資料叢書第十輯』所収戸沢家中分限帳(二)」に、戦国大名 佐竹義宣家臣として安島丹後守久成の名が見える。主家佐竹氏天正2年1574年) 2月陸奥国高野郡にある白河結城氏方の赤館奪取により白河郡新たな領地獲得し天正6年1578年8月佐竹白河両家和議結んだことで、陸奥南部における新たな領土陸奥南郷領を確立していた。同分によれば久成棚倉の地で城代務めていたとされるが、当時棚倉の地にはまだ棚倉城築城されておらず、赤館城(赤館とも)及び寺山城(寺山館)が存在していた。久成城代務めていたのはそのいずれかと見られる。 なお、当時佐竹氏陸奥南郷全体統括担っていたのは佐竹氏の有力一門 佐竹義久であるが、安島久成の「久」の字は義久より与えられたものか。もしくは前項安島善之進久成の名を受け継いだものと見られる。しかし、佐竹氏陸奥南部支配その後伊達氏勢力伸長によって苦境に立たされており、1583年頃に安島氏家門没落していった。 久成一子隼人22歳流浪しており、後、慶長7年1602年)、常陸国笠間宍戸において松岡藩主として入封した戸沢政盛200石で仕官したとされるその後、政盛の出羽国転封に伴い隼人新庄移住した隼人直系代々左衛門名乗り新庄藩代官水道奉行などを歴任したほか、久成傍系子孫からは江戸時代和算家従五位安島直円輩出されている。 また、戸沢政盛には同族安島衛門信重も仕官しているが、政盛が出羽新庄藩転封となった際には主家同行せず常陸残留し戸沢氏家臣の列を離れて浪人となったその子 信次は姉の嫁ぎ先 川澄氏水戸藩士であった縁から推挙を受け水戸藩士となっている。この信次の子孫から輩出されたのが後の水戸藩家老(執政) 贈正四位安島帯刀である。

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