安島丹後守久成
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安島久成 (丹後守)(あじま ひさしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。本姓は藤原氏。家系は藤原秀郷流の安島氏。戦国大名・佐竹義宣の家臣。受領名は丹後守。 山形県新庄市立図書館編『郷土資料叢書第十輯』所収「戸沢家中分限帳(二)」に、戦国大名 佐竹義宣の家臣として安島丹後守久成の名が見える。主家の佐竹氏は天正2年(1574年) 2月に陸奥国高野郡にある白河結城氏方の赤館城奪取により白河郡に新たな領地を獲得し、天正6年(1578年)8月の佐竹・白河両家が和議を結んだことで、陸奥南部における新たな領土・陸奥南郷領を確立していた。同分限によれば久成は棚倉の地で城代を務めていたとされるが、当時、棚倉の地にはまだ棚倉城は築城されておらず、赤館城(赤館とも)及び寺山城(寺山館)が存在していた。久成が城代を務めていたのはそのいずれかと見られる。 なお、当時、佐竹氏の陸奥南郷領全体の統括を担っていたのは佐竹氏の有力一門 佐竹義久であるが、安島久成の「久」の字は義久より与えられたものか。もしくは前項の安島善之進久成の名を受け継いだものと見られる。しかし、佐竹氏の陸奥南部支配はその後、伊達氏の勢力伸長によって苦境に立たされており、1583年頃に安島氏の家門は没落していった。 久成の一子の隼人は22歳で流浪しており、後、慶長7年(1602年)、常陸国笠間郡宍戸において松岡藩主として入封した戸沢政盛に200石で仕官したとされる。その後、政盛の出羽国転封に伴い、隼人は新庄に移住した。隼人の直系は代々五左衛門を名乗り、新庄藩の代官や水道奉行などを歴任したほか、久成の傍系子孫からは江戸時代の和算家 贈従五位安島直円が輩出されている。 また、戸沢政盛には同族の安島善衛門信重も仕官しているが、政盛が出羽新庄藩に転封となった際には主家に同行せず常陸に残留し、戸沢氏の家臣の列を離れて浪人となった。その子 信次は姉の嫁ぎ先 川澄氏が水戸藩士であった縁から推挙を受け水戸藩士となっている。この信次の子孫から輩出されたのが後の水戸藩家老(執政) 贈正四位安島帯刀である。
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