安岳3号墳とは? わかりやすく解説

安岳3号墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/12 16:29 UTC 版)

安岳3号墳
所在地 朝鮮民主主義人民共和国黄海南道安岳郡安岳面兪雪里
位置 北緯38度26分25.0秒 東経125度30分27.0秒 / 北緯38.440278度 東経125.507500度 / 38.440278; 125.507500座標: 北緯38度26分25.0秒 東経125度30分27.0秒 / 北緯38.440278度 東経125.507500度 / 38.440278; 125.507500
被葬者 冬寿
世界遺産登録 2004年
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安岳3号墳(あんがくさんごうふん)は、朝鮮民主主義人民共和国黄海南道安岳郡安岳面兪雪里に所在する古墳。被葬者は高句麗亡命した中国人前燕武将冬寿[1]とする説が有力[2]2004年世界文化遺産に登録[2]

概要

1949年黄海道安岳郡で発見された安岳3号墳からは、高句麗亡命した前燕武将冬寿の68字にわたる墓誌が検出され、そこには東晋の年号のもとに生前の官爵が列挙され、出身地のあとに、冬寿がこの地で69歳の生涯を閉じたことが記されていた[3]。墓室面積において朝鮮半島で最大を誇るこの壁画古墳の被葬者は、墓室内に墓誌を残す冬寿本人と考える説が有力であり、高句麗王墓をしのぐ安岳3号墳の実在は、4世紀の半ばにおいても、この地方に楽浪郡以来の中国系の人びとや中国からの流移民が、かなり自立的で半独立的な勢力を保っていたことを示すものとして重視されてきた[3]

分析

1976年朝鮮民主主義人民共和国平安南道南浦特別市で発見された徳興里古墳の前室北壁の天井部には、14行154字に及ぶ墓誌銘が見出され、それによってこの古墳が、408年に没した「建位將軍,國小大兄,左將軍,龍讓將軍,遼東太守,使持節,東夷校尉,幽州刺史」という官職をもつ高句麗亡命した中国人貴族であるの墓であることが判明した[4]。たまたま発見された冬寿の安岳3号墳と徳興里古墳の2つの墓誌は、4世紀中ごろから5世紀にかけての高句麗王権と中国系外来人との政治関係に大きな変化が起こっていたことを物語る[3]。すなわち、357年に没した冬寿と408年に没した鎮は、同じように高句麗に流入した中国人でありながらも、高句麗王権の渡来中国人に対する把握に、一定の進展が認められ、冬寿から半世紀後の鎮の墓誌には、中国の年号でなく、高句麗の年号を用い、高句麗本来の官位が明記されており、ここには高句麗王権の正統性を認め、高句麗の政治体系に服した鎮の高句麗王権に対する姿勢が明確にみてとれる。李成市は、「冬寿と某鎮との間には、高句麗の、渡来中国人に対する政治的な包摂がいちだんと進展し、決定的となった歴史的推移がみられる」と評している[3]

脚注

  1. ^ 森公章浜田耕策 (2010年). “古代王権の成長と日韓関係 ―4~6世紀―” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第2期) (日韓歴史共同研究): p. 135-136. オリジナルの2022年8月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220813102055/https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/10/1-allj.pdf 
  2. ^ a b マイペディア安岳3号墳』 - コトバンク
  3. ^ a b c d 李成市 『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、25-27頁。ISBN 978-4000029032 
  4. ^ 薗田香融 (1989年3月). “東アジアにおける仏教の伝来と受容”. 関西大学東西学術研究所紀要 (22) (関西大学東西学術研究所): p. 4-5 

関連項目


安岳3号墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 02:53 UTC 版)

冬寿」の記事における「安岳3号墳」の解説

1949年黄海道安岳郡発見された安岳3号墳は、複雑な構造回廊石室壁面彩られ壁画古墳として著名である(世界遺産高句麗古墳群」の一つ)。盗掘受けて遺物はほとんど残っていなかったが、壁面に「永和13年冬寿…」など68字にわたる墨書銘文検出され東晋年号生前官職出身地冬寿69歳死去したことが明記されており、高句麗王墓をしのぐ朝鮮半島最大の墳室面積の安岳3号墳の被葬者は、墓誌検出され冬寿が有力である。ただし、被葬者高句麗美川王の説もある。 現在までに中国発見され21基の東魏北斉壁画墓中、茹茹公主高潤婁叡厙狄迴洛高洋の5基の北方民族出身者鮮卑あるいは鮮卑化した漢人推測される)の墓中では、墓室壁画描かれていなかった1基(厙狄迴洛)を除けば、のこる4基は、すべて墓室の奥壁、すなわち正壁の中央部に正面向き墓主像が描かれているか、あるいは描かれていた。一方正面向き墓主像のない4基の壁画墓の被葬者はすべて漢人で、しかも崔臨朐崔氏と崔昴の平山崔氏は、いずれも当時北方名門豪族である。よって、正面向き墓主像は東魏北斉時代における北方民族出身者壁画墓の特徴考えられる冬寿の墓は北朝鮮黄海北道発見されたが、墓主像は右側室の右壁に描かれており、その前壁に墓主夫人像が描かれている。すなわち、正面向き墓主像が側室描かれている。朝鮮半島では、冬寿の安岳3号墳をはじめ幾つか正面向き墓主あるいは墓主夫婦座像描かれている壁画古墳発見されているが、現在までの発掘調査結果によると、高句麗壁画古墳にあって高句麗王陵として壁画墳が採用されたのは湖南四神であった推定され墓室四壁四神描かれていることが知られる。よって、高句麗王族の墓には、正面向き墓主像が描かれてなかったといえる。すると、これらの正面向き墓主像が描かれている高句麗古墳被葬者は、安岳3号墳の冬寿同じく後燕南燕北燕、あるいは他の鮮卑部族から朝鮮半島亡命してきた鮮卑推定できる

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