威一郎と三島由紀夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/15 01:00 UTC 版)
男児・威一郎が誕生した翌年、三島は息子の将来に思いを馳せ、「どんなことをしても、小説家だけにはなつてもらひたくない」として、「どんなに世間の喝采を博す喜びがあるにしても、こんなサーカスの綱渡りみたいな危険な職業は選ばせたくない」と語った。また、雑誌などで子供の写真を撮らせない方針であることを述べ、親が有名人だということで、自分も何か実質があるかのような勘違いを起し、人格形成に計り知れない害を及ぼすことを危惧した。 家で子供と一緒に夕食を摂る時には、どんな面白い番組があっても絶対にテレビは消させた三島だが、雑誌に連載される赤塚不二夫の『もーれつア太郎』は、いつも威一郎と奪い合って読んでいた。 威一郎が6歳の頃には、息子の友達が家に集まって来ると、三島はボディビルで鍛えた胸を叩いて怪獣のような奇声を発しながら、子供たちを脅かすことが恒例となり人気を博していた。一番幼い子などは、平岡家には怪獣が住んでいると本当に信じ込んでいたという。 三島は死を決意した1970年(昭和45年)3月頃から、少しでも子供との時間を増やしたいかのように、威一郎をよく後楽園ゆうえんちに遊びに連れて行き、時には倭文重も伴って、遊んだ帰りに水道橋のトンカツ屋で楽しく会食した。ある日、威一郎をデパートに連れて行った時、玩具のことで親子喧嘩をした威一郎が「お父様なんか死んでしまえ!」と口答えをした。三島はそのことが身に応え、本当に悲しそうだったという。 自決する月の11月13日には、威一郎の小学校の授業参観の後、勝部校長と3時間ほど息子のことで懇談したという。三島は日頃、他人に自分の子供の話などしない人間だったが、自死のせまったある日には、とある人物との用談中、唐突に「僕は威一郎が可愛くて可愛くてどうにも仕方がない、本当に可愛いんだ」と2、3度同じことを繰り返したとされ、さらに、23日か24日頃には、母親にも「お母様、僕はもう威一郎を諦めました」と言ったという。
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