女性としてのデオン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/24 09:02 UTC 版)
「シュヴァリエ・デオン」の記事における「女性としてのデオン」の解説
デオンはいつも竜騎兵の制服を着ていたという事実にも関わらず、彼は本当は女性ではないかという噂が後を断たなかった。彼の性別について、ロンドン証券取引所で賭けの寄り合いが始まった。1774年にルイ15世が亡くなると、彼は帰国の交渉を始めた。彼は自分は身体的にも男性ではなく女性であると主張し、政府に彼を女性と認めるように要求した。ルイ16世と政府はデオンの要求を全て受け入れ、彼に女性の服を着用するよう命じた。王は新しい服を購入するための資金を与えデオンは承諾した。1777年にデオンは帰国し、以降は女性として暮らし始めた。しかし、相変わらず軍服を好んで着用するデオンに、事情を知らないフランス王妃、マリー・アントワネットから、「ドレスもなく男装しているのは気の毒だ」と同情を買い、彼女が贔屓にしているローズ・ベルタン嬢デザインのドレスが贈られている。 フランス政府がアメリカ独立戦争援助を始めると、デオンは自分がアメリカでフランス軍に加わることはできるか尋ねた。彼はディジョンの城に19日間投獄され、故郷トネールで6年あまりを母親と過ごした。 1779年、デオンは回顧録『軍人の生涯、外交官そしてデオン嬢の私生活(La Vie Militaire, politique, et privée de Mademoiselle d'Eon)』を発表した。これは友人ラ・フォルテールの代筆によるものだが、おそらく話に尾ひれがつけられていただろう。1785年にデオンはイギリスへ戻った。フランス革命後は年金を失ったため、蔵書を売らなければならなかった。1792年、彼はフランス国民議会に書簡を送り、ハプスブルク家との戦いに女性兵士師団を用いるよう提案したが拒絶された。1796年に重傷を負うまで、デオンは生活費稼ぎのためにフェンシングの試合、見せ物としての決闘に参加した。1805年に彼は自身の自叙伝の契約を結ぶが、これが世に出ることはなかった。晩年には神経痛・リューマチを病み、ロンドンでコール夫人というイギリス人を夫に持つフランスの未亡人とともに過ごした。シュヴァリエ・デオンはロンドンで1810年5月21日に死亡。死後に検死した外科医は、彼は解剖学上は男性であることを明らかにした。デオンが葬られたロンドンの墓所は不明である。デオンの子孫は現在もフランスに存命している。
※この「女性としてのデオン」の解説は、「シュヴァリエ・デオン」の解説の一部です。
「女性としてのデオン」を含む「シュヴァリエ・デオン」の記事については、「シュヴァリエ・デオン」の概要を参照ください。
- 女性としてのデオンのページへのリンク