大戦期のアメリカ機甲師団の装備・編成の変遷
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ドイツ軍のあげた大きな戦果に触発され、1940年6月より機甲師団の編成に着手した。7月15日付けで第1・第2の機甲師団が編成された。この時点での編成は以下のとおり。 第1機甲師団 - 1個機甲旅団(3個戦車連隊・機甲砲兵連隊・機甲工兵大隊)・1個機甲歩兵連隊・機甲砲兵大隊・機甲偵察大隊 第2機甲師団 - 1個機甲旅団(3個戦車連隊・機甲砲兵連隊)・1個機甲歩兵連隊・機甲砲兵大隊・機甲工兵大隊・機甲偵察大隊 1942年、アメリカ陸軍は、機甲師団において、コンバット・コマンドと称する新しい編制を採用した。これは、隷下部隊を持たない戦闘団司令部を2個、師団司令部隷下に常設しておき、必要に応じて、様々な部隊を配属して戦闘団を編成するというものである。当初、戦車と歩兵の連携を軽視していたため戦車部隊の比率が高い編成だったが、戦訓により編成が見直された。 1943年には、コンバット・コマンドをさらにもう1個増設するとともに、連隊編制を廃して、師団隷下に直接各大隊を配した編制が採用された。ただし、1943年型機甲師団では、機甲兵力がやや減少することから、1942年型機甲師団も重師団と称されて、第2及び第3機甲師団は、この重師団編制のままで残されることとなった。これに対して、1943年型機甲師団は軽師団と称された。第二次世界大戦終結までに第1から第14・第16・第20の16個機甲師団が編成された。 1942年型機甲師団(重師団) コンバット・コマンドA(CCA) コンバット・コマンドB(CCB) 2個戦車連隊 1個軽戦車大隊 2個中戦車大隊 機甲歩兵連隊 3個機甲歩兵大隊 機甲野戦砲兵大隊 3個機甲野戦砲兵中隊(M7自走砲×6両) 機甲偵察大隊 3個機甲偵察中隊(M8装甲車×27両) 軽戦車中隊(M5軽戦車×15両) 突撃砲中隊(M8自走砲×8両) 機甲工兵大隊 機甲通信中隊 師団団列 機甲補給大隊 機甲兵器整備大隊 機甲衛生大隊 1943年型機甲師団(軽師団) コンバット・コマンドA(CCA) コンバット・コマンドB(CCB) コンバット・コマンドR(CCR) 3個機甲大隊 3個機甲歩兵大隊 師団砲兵司令部 3個機甲野戦砲兵大隊 機械化騎兵大隊 機甲工兵大隊 機甲通信中隊 師団団列 機甲補給大隊 機甲兵器整備大隊 機甲衛生大隊 兵器単体の性能は平凡なものの、圧倒的な生産力で、必要と考えられる兵器の機械化を進めたバランスの取れた機甲師団を作り上げた。歩兵部隊や砲兵部隊のみならず、他の支援部隊まで機械化が進み、迅速な進撃を可能としていた。また、所属部隊を入れ替えることのできる司令部組織「コンバット・コマンド」システムを採用したことにより、状況に柔軟に対応できた。さらに、充実した砲兵科と戦闘爆撃機による手厚い支援によって枢軸軍を圧倒した。 「75mm砲で十分」とするアメリカ軍の判断の甘さで、M26パーシング重戦車の投入が遅れ、ドイツのパンター・ティーガー戦車に苦しめられたが、M4中戦車の数は膨大で、M4中戦車多数で強力なドイツ軍戦車に対して複数方向から集中砲火を浴びせるという戦術が多用された。 自走砲では、M8やM7などが投入された。ドイツ・ソ連と比べると非力な感はあるが、数は多く、上記の戦闘爆撃機の支援もあり、戦車隊を援護した。 兵員輸送車も充実していた。アメリカの優秀な軍用自動車としてジープが有名である。高馬力のエンジンは、大型トラックをも牽引することが出来、輸送用・偵察用・連絡用など幅広く用いられた。 機械化偵察部隊は装甲車の他に、M3軽戦車やM5軽戦車を使用した。
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