大島出身の著名人と大島節
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 02:45 UTC 版)
宮川哲夫 大島町波浮港出身の作詞家、宮川哲夫は1974年(昭和49年)に52歳で亡くなったが、1976年(昭和51年)に出版された遺稿で「大島節」のオリジナル作詞を残していたことが記録されている。以下の7詞であるが、4つは出身地である波浮港を詞ったものである。三原山かよ 椿の花か いいや大島 波浮港よ お寄りなされよ 港へ波浮へ 波浮は女子(おなご)と 奥の山 三原颪(おろし)か 吹く潮風か 誰が咲かせた 島つばき 小池小池と 莫迦にはするな 波浮の港は 黄金海 波浮の港を 小池たぁ野暮よ 小池どころか 鍋の底 色が黒いと 言ふのは無理な 私ァ大島 浜育ち 黒い髪の毛ァ 丈より長い 惚れたあの娘は 島育ち 中出那智子 大島町波浮港出身の西洋画家、中出那智子は2006年(平成18年)の大島町・藤井工房での個展「ふるさとを描く - 中出那智子油絵展」における「画家からのメッセージ」で、「大島節」について以下のように述懐している。 画家からのメッセージ・・・私は画業生活のなかで、自分を見失いそうになった時には、「大島節」を歌ったり、踊ったりして、かろうじてバランスをとってきた。それは遠い外国(南米ブラジル・サンパウロ)だったり、北陸の雪の中(石川県・加賀市)であったりした。私はいつも、ふるさと伊豆大島の息吹きを、この胸に感じながら絵筆を握ってきた。 つげ義春 大島町元町出身(0歳~4歳まで在住)の漫画家、つげ義春は1987年3月発表の作品「海へ」の中で、主人公が、家族5人(つげ一家)が幸せに暮らした伊豆大島時代を懐かしむシーンで、母親があんこ娘姿で、大島全景や白煙上がる三原山、椿の花等を背景に「大島節」を唄い、踊るカットを、6カット登場させている。(歌詞は、わたしや大島 御神火育ちよ 胸に煙はよ たえやせぬ と表記) 石川好 大島町波浮港出身の作家、石川好は1989年に小説「ストロベリー・ロード」の中で、兄や日本人らと、カリフォルニアのイチゴ農園や出掛けた先々で、三原山や波浮港、クサヤ(室鯵の干物)や「大島節」等、出身地伊豆大島に関わる会話や単語が随所に出てくる。
※この「大島出身の著名人と大島節」の解説は、「大島節」の解説の一部です。
「大島出身の著名人と大島節」を含む「大島節」の記事については、「大島節」の概要を参照ください。
- 大島出身の著名人と大島節のページへのリンク