大宮駅以北の運用に関する論争
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「東北・上越新幹線反対運動」の記事における「大宮駅以北の運用に関する論争」の解説
大宮駅以北の延伸については、県内自治体から相反する要求が出された。 上尾事件後に事件の背景として指摘されたように、高崎線の沿線は高度経済成長以降、急速な通勤通学人口の増加が起こった。このため、同線は営業係数でも常に上位にランクするなど国鉄経営への貢献の大きな線区の一つに成長したが、反面、輸送力の増強が追いついておらず、1980年代初頭でも280%余りの混雑率を記録していた。このような中、展望が開けるきっかけとなったのが通勤新線の建設であり、新聞でも高崎線沿線からの混雑緩和への期待感が報じられている。 1979年(昭和54年)12月20日には、埼玉県議会で「通勤新線・熊谷乗り入れに関する意見書」が全会一致で可決された。この要求を考慮した国鉄は、高崎線が混雑率でもワーストクラスにあったことから、当初中間で赤羽線を取り込んだ上で、宮原駅 - 新宿駅間を開業させる計画だった。しかし、沿線地域でも要望には差があり、上記1979年12月の県議会議決の直後にも、与野市・浦和市・戸田市の三市長ならびに県議会議長が埼玉県に対して反対を申し入れている。 一方で、川越線沿線住民からも「通勤新線を相互乗り入れしてほしい」との要望は強く出されていた。この要望についても国鉄は検討を行い、南古谷に車両基地(の用地)を確保できれば、川越線の電化を行うことで、川越駅まで直通運転が可能であると判断した。車両基地は埼京線内(戸田駅付近)や高崎線内(宮原駅付近)の計画が、用地買収の難航で頓挫していた。 川越線の電化、および通勤新線開業後の一体的運用への計画変更は、こうした判断がきっかけとなっている。車両基地の用地買収も円滑に進められ、土地は確保された。埼京線の車両基地が、開業時より指扇駅 - 南古谷駅間間に川越電車区(現・川越車両センター)として設けられたのも、このような経緯による。 なお、車両基地の設置場所が確定した後も、県北自治体からは通勤新線を宮原駅以北に乗り入れさせるように運動が行われた。具体的には、沿線13市町村の首長、議会議長で構成する「通勤新線熊谷乗り入れ促進協議会」や県議会議員で構成する「国鉄高崎線輸送力増強推進協議会」の活動が報じられている。これらは埼玉県の構想にも反映され、将来的には乗り入ればかりでなく、宮原駅以北の高崎線複々線化も視野に入れていた。
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