大国への再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:47 UTC 版)
「レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「大国への再興」の解説
ウィーン解放から攻勢に出たレオポルト1世は、1684年にポーランド・ヴェネツィアと神聖同盟を締結、ロレーヌ公シャルル5世を指揮官としてドナウ川に沿ってハンガリー遠征を敢行した(大トルコ戦争)。遠征軍は順調に成果を上げ、1686年にブダを落としてハンガリーの大部分を制圧、1687年のモハーチの戦いでオスマン帝国に勝利してからトランシルヴァニアにも介入した。アパフィ・ミハーイ1世はハプスブルク家と協定を結び、あくまで反抗したテケリは味方が遠征軍に寝返ったため没落、オスマン帝国の援助なしに活動出来なくなった。 レオポルト1世は1687年にブラチスラヴァでハンガリー議会を召集、前回とは打って変わって皇帝側が大きく権力を伸ばし、貴族の権利承認と引き換えに男子世襲の承認、貴族の抵抗権放棄、長男ヨーゼフ1世のハンガリー王即位を認められた。翌1688年にハンガリーに改革委員会を設置、行政・司法の整備と上級貴族への課税を行った。トランシルヴァニアにも変更を加え、1691年に信仰の自由、国制の保障と引き換えにトランシルヴァニアを事実上領有、翌1692年にトランシルヴァニア公アパフィ・ミハーイ2世から統治権を譲らせ、1698年に東方典礼カトリック教会を設立して宗教にも介入、ドナウ川流域を中心とする帝国の誕生に繋げた。 東欧で遠征を進めている最中、ルイ14世がドイツに出兵して大同盟戦争が勃発、イングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世および帝国諸侯と共にアウクスブルク同盟を結んでルイ14世と戦った。この際、遠征軍の大部分をドイツ・イタリアへ回したためハンガリー戦線は停滞した。1696年にイタリアでサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世がフランスと講和して離脱、共に中立に同意したため同盟は終戦に向かい、1697年のレイスウェイク条約締結に繋がった。 イタリアから解放されたためイタリア方面軍をハンガリー戦線へ送り、プリンツ・オイゲンがゼンタの戦いで大勝利を飾ったため1699年にカルロヴィッツ条約を結び、オスマン帝国からハンガリー王国の大部分(オスマン帝国領ハンガリーおよびトランシルヴァニア公国)を奪回することに成功した。これによってハプスブルク家は、18世紀を目前にして、大国復興の足がかりを築くことが出来たのである。また、ポーランド王ヤン3世が死去した際、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世を国王選挙で支援、次の国王に即位させてポーランドにも影響を及ぼした。
※この「大国への再興」の解説は、「レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)」の解説の一部です。
「大国への再興」を含む「レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事については、「レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)」の概要を参照ください。
- 大国への再興のページへのリンク