執金剛神立像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 08:07 UTC 版)
国宝。塑造。像高170.4センチメートル。本尊背後の厨子に安置され、毎年12月16日の開山忌にのみ開扉される秘仏である。なお、厨子は「漆塗厨子 1基」の名称で、国宝の附(つけたり)指定となっている(2010年追加指定)。執金剛神とはサンスクリットのヴァジュラパーニ(金剛杵をもつ者)の漢訳で、寺院の山門の左右に立つ金剛力士(仁王)と起源を同じくするが、一対ではなく単独の像として表されたものである。寺院の門で見かける仁王像が上半身裸形であるのとは異なり、本像は唐風の甲(よろい)をまとい、両目を見開き、口を開いて怒号するさまを表す。右手は肩の辺まで上げ、仏敵や煩悩を打ち砕く金剛杵を構え、左手は下げて拳を固く握る。籠手を着けていないため、肘から先があらわになっており、左腕に血管の浮き出ているさまが描写されている。長年秘仏であったため、当初の彩色が良好に保存されている。上腕部の衣には朱、緑青、群青の地に宝相華文を表し、甲は胸当てに瑞雲文、下甲に宝相華唐草、下半身の甲の小札(こざね)には1枚おきに対葉花文と孔雀羽文を表す。 『東大寺要録』「諸院章」の羂索院の項には、同院は「天平5年、良弁僧正が不空羂索観音を本尊として創建したもので、後には等身の執金剛神像を安置し、これは僧正の本尊である」という意味の記載がある。ただしこれは創建と同時代の記録ではなく、本像が当初から不空羂索観音像とセットで造像されたか否かは不明である。『日本霊異記』にはこの像に関する説話を載せる。それによると、金鷲優婆塞(こんしゅうばそく)は山寺に1体の執金剛神の塑像を安置し、この像の脛に縄を結んで日夜修行に励んでいた。そうしたところ、像の脛から不思議な光を発し、それが宮中にまで届いた。時の聖武天皇は金鷲優婆塞の日頃の精進を称え、正式の出家を許した。今、その像は羂索堂の「北戸」にある、という。この「金鷲優婆塞」は東大寺開山の良弁を指すとみられる。この説話からは、平安時代初期にはすでに執金剛神像を良弁ゆかりの像とする伝承が存在したことがわかり、「北戸」という表現は、像が現在と同じく法華堂本尊の背後に安置されていたことを示唆している。 元慶年間(938年 - 947年)の平将門の乱の際、執金剛神像の元結が蜂となって飛び去り、将門を刺して乱を平定に導いたという伝説もあり、『東大寺要録』などに載せられている。たしかに、本像の頭上の髻(もとどり)を結ぶ元結のうち、向かって左の半分は欠失して、芯の銅線が露出している。 執金剛神像の厨子の前の2本の柱に取り付けられている鉄釣燈籠一対は鎌倉時代の作で、重要文化財に指定されている。この燈籠にも上記伝説に基づき蜂がデザインされている。。本像を納める厨子は、「漆塗厨子 1基」の名称で、国宝の附(つけたり)として指定されている。
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