地方私鉄からの入線経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 01:46 UTC 版)
「阪急96形電車」の記事における「地方私鉄からの入線経緯」の解説
1937年に勃発した日中戦争の戦火は中国大陸に広く拡大し、日本は国力の大半を戦争遂行に費やす総力戦に突入していた。国家総動員法(1938年成立)など戦時経済統制に関する法律施行により、石油・石炭等の燃料のみならず、鉄鋼や軽金属などの民需も制限され、軍需物資増産に転用された。 一方、軍需工場への通勤者が増加したことから、省線電車や都市近郊私鉄では輸送力増強のため新車導入を図ったが、鉄道車両の新規製造は統制物資を多量に消費することから、鉄道省も製造認可を容易に出さなくなっていた。 これは阪急においても例外ではなかった。1930年代から、阪急今津線沿線では現在の阪神競馬場の敷地に川西航空機宝塚工場が建設されるなど、軍需工場が多数立地していた。当時の今津線では、従来からの主力であった90形や1形が単行から2両編成で運行されていたが日中戦争の長期化と日独伊三国軍事同盟締結に伴う対米英関係の悪化に伴い、軍需物資の更なる増産が求められ、工場通勤者対策の輸送力増強は急務となった。 しかし当時は、前述のとおり物資不足と経済統制の強化によって、大手私鉄の阪急といえども車両増備が容易でなかった。1939年に神戸線向けの920系8両、1940年には宝塚線向けに500形10両、1941年には再び神戸線向けに920系10両と、本線向けに限られた車両増備が許されただけで、今津線など支線向け車両の新造は困難な情勢であった。 そこで異例の措置として、地方私鉄の余剰車両を譲り受けて支線車両の不足を満たすことになった。調査の結果、当時、富山県の加越鉄道(のち富山地方鉄道を経て加越能鉄道加越線)で、1931年以降の気動車の大量導入に伴い、余剰車となっていた中型半鋼製客車ナハフ101・102が俎上に上がり、該当車2両は小島栄次郎工業所を通じて阪急に購入された。
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