土地経営とジョンソン・ホール
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「ウィリアム・ジョンソン (初代準男爵)」の記事における「土地経営とジョンソン・ホール」の解説
フレンチ・インディアン戦争の後、ジョンソンは自分が所有する土地の拡張と、地価を上げることを強く望んでいた。1760年12月、カナジョーハリ(英語版)のモホーク族が、モホーク川北の、約8万エーカー(320平方キロ)の土地をジョンソンに寄贈した。この土地の贈与は、のちに物議をかもした。他の土地の投資家が、すでに売りに出されていたモホークの土地を得るための免許を取得していたのに、ジョンソンは持っていなかったからだった。1769年、策略と裏工作の末、ジョンソンはついにこの土地に国王からの承認を得た。ここは、ジョンソンが、国王認可のインディアン代理人の立場を利用して、モホーク族やイロコイ連邦から手に入れた広大な面積の土地の一部であったが、ジョンソンは、亡くなるころには17万エーカー(690平方キロ)もの土地を手に入れていた。ジョンソンは北アメリカでは、2番目の土地長者であり、彼に所有面積で上回るのは、ペンシルベニアを整備したペン一族だけだった[要出典]。 彼が行ったことすべてのは、インディアンの土地において他の数十の投資家が行ったこととなんら変わりはない。ただ、彼は自らの仕事と、インディアンたちとの親交を通じて得た大きな利益にのみよって他と区別される。彼はまさに、インディアンからの主な搾取者の一人ではあった… — 1762年、ジョンソンは自らの土地にジョンズタウンを建てた、ここはスケネクタディから25マイル(40キロ)西、モホーク川の北にあった。ジョンソンは、この新しい入植地を、自分の息子の名のジョンにちなんで、ジョンズタウン(John's Town)と最初は呼んでいた。ジョンソンはそこに王室からの下賜金で、白人とモホーク族双方の子供のために、公立の学校を建てた。 1763年、この町の外に、ジョンソンはジョンソン・ホールを建て、その後の人生をそこで送った。拡大した土地に多くのアイルランド系の小作農を雇い入れ、ジョンソンは実質中世の封建領主のような生活をした。また、アフリカ系の奴隷を労働者として材木の作業に使った。ジョンソンは60人もの奴隷を使っており、彼が住む郡で、そしておそらくはニューヨーク植民地の中で最も多くの奴隷を雇っており、その数は南部のプランテーションの主な奴隷の数に匹敵した。1766年、ジョンソンは第4セント・パトリック・ロッジというフリーメーソンのロッジ(英語版)をジョンソンホールに作り、そのマスターに任命された。ジョンソンの甥のガイは、1770年にマスターとなってこのロッジを引き継いだ。 ジョンソンは、ニューヨーク植民地の中でも熱烈な聖公会の支持者だった。ニューヨーク西部における、フランスのカトリック布教の影響に対抗するために、1769年にモホーク族のために、自らの資金でカナジョラリエの集落に聖公会の教会を建てた。この集落はイギリス系住民からアッパー・キャッスルと呼ばれており、その教会の建物は後にヨーロッパ系アメリカ人の会合の場として使われた。この建物はインディアン・キャッスル・チャーチ(英語版)として知られ、今もニューヨークのダヌーブの近くに建っていて、モホーク・アッパー・キャッスル歴史地区(英語版)の一部で、アメリカ合衆国国定歴史建造物にも指定されている。1771年、ジョンソンはそれよりも大きな石造りの米国聖公会の教会をジョンズタウンに建てた、ジョンストンでの会合が増え続けたため、より多くの人々を収容するのが目的だった。この歴史のある教会は今も地元の人々の礼拝に使われている。
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